2017年6月の総評

人気の一句



今月はこちらの二句が人気でした。

一つ目は「ふっと去る」と「フットサル」を掛けた句ですが、「おまんこに ゴールを決めて」というフレーズがとても気に入っています。思わず「ナイシューッ!」と叫びたくなりますし、ゴールを決めた後のふっと去る姿がとても渋いですね。

二つ目は世間を賑わせている藤井四段の一句。「余談」と「四段」の韻が目立ちますが、これも「挿されてえ」と将棋の「指されてえ」が掛詞になっていることにお気付き頂けたでしょうか。

藤井四段の活躍には乾いたおまんこも踊り出すようなワクワクを覚えますね。今後のさらなる活躍を期待しています。

お気に入りの一句

今月のお気に入りの一句を紹介していきます。



「乳房」と「恥部」で韻を踏みつつ、「乳房」と「仕草」でも韻を踏む。上五が中七と下五にも掛かっていくテンポの良さが気に入っています。

恥じらう仕草ほど性欲を唆るものもありませんね。恥じらいのないセックスなど、動物の生殖行為に過ぎません。私は特に恥じらいと快楽で赤く染まる頰が好きです。



隠喩と韻に富んだ一句となりました。「ピルクル」とは、ヤクルトの類似品と言われることの多い乳酸飲料です。乳というところから、精液を連想させるわけです。無理がありますね。

この一句、「ピル」と「ピルクル」の韻に目を奪われがちですが、実は「皮」を英語にすると「ピール」となり、そこにも掛かっているというギミックがあります。

ちなみにピールは果物の皮を意味し、仮性包茎の皮をピールで例えることでバナナを連想させているわけです。我ながらうまいこと詠んだな、と思いました。



この一句で、いよいよ私も俳人になれたんじゃないだろうかと感じます。

久里浜」という地で「潮の香り」を嗅ぎ海を感じるとともに、潮風に「べとついて」いる肌や髪に眉をしかめる。そんな夏らしさのある情緒溢れた一句です。

が、「潮」は女性をくじらに例えた潮でもあることに気が付くと、途端に「べとついて」のイメージが変わります。それどころか「久里浜」すらクリトリスを連想させるのです。クリトリスの浜ってなんだろう。想像が膨らみますね。



エとコって見間違えますよね。



「お、ち、ん、ぽ❤️」が句点も含めて7音になっています。皆さんもこの一首を声に出して読んでみてください。日常の嫌なことがどうでもよくなりますよ。

おわりに

正直に言うとここのところなかなか作品ができません。どんな言葉を思い浮かべても「あ、これ前にも詠んだわ」となってしまうのです。

表現者として自分を追い詰めながらなんとか奥床しい一句を詠もうと努めていますので、ふとした時に気にかけて頂ければ幸いです。あなたの応援が作品を生み出す原動力なのです。

2017年5月の総評

人気の一句


今月の人気一句はこちら。「嘘でも抱いて」は原曲歌詞の「嘘でも抱かれりゃ あたたかい」から来ています。JASRACに怒られそうですね。ちなみに、これを見た後に歌を聴くと「あなたと越えたい 天城越え」が下ネタに聞こえてきます。実際下ネタなのかもしれません。天城越えの人気ぶりに驚くと同時に、石川さゆりさんすげえなあといった所感です。

お気に入りの一句

今月のお気に入りの一句を紹介していきます。


「棒」と「嬢」で韻を踏んでいることは言わずもがなですが、この一句、情景がとても鮮明に浮かぶんですよね。

アダルトな文化に自慰を自撮りする女の子というジャンルがあります。一部の偏った性的嗜好を抱えた方々から熱い支持を受けるこちらですが、基本的には固定カメラの前で女の子がオナニーをするという構図となります。

実は、私はこの一句の中である提案をしているのです。それは自撮り棒の棒でオナニーをしながら自撮りしたら生々しくダイナミックでマニアックなエロティックな映像が撮れるのではないかというものです。自撮り棒で自慰をする女の子を想像してみてください。なんて滑稽なんでしょう



「処理」と「女子」で韻を踏んでいますね。注目すべきは上五(かみご:始めの五音)と中七(なかしち:間の七音)の締めで韻を踏んでいることです。こうなりますと、下五(しもご:終わりの五音)でも韻を踏むことが予想されます。が、実際には「夏は来た」とあえて韻を踏まず、完了形の言葉を用いています。読み手の予想に対する裏切りによってその言葉の力強さが強調されているのです。この手法は楽曲などでも効果的に使われていて、例えば大サビの入りで一拍休符を用意することで「あ、サビが来る!」という聴き手の予想を裏切ることによりいっそうサビの印象を強くしていたりします。



「ちんちん」と「禁忌」で韻を踏んでいますね。また韻かよ、と思ったあなた。韻にばかり気を取られてその後のギミックを見落としていませんか?いえ、お気付きですよね、野暮でした。

ちなみに私が始めて買ったCDはKinKi Kidsの「僕の背中には羽根がある」でした。



「中出しの一句」というのが少々野暮だったかもしれません。例に漏れず「涙」と「阿弥陀」で韻を踏んでいます。また、「溢れ出す」というフレーズが「涙」を導いていますね。

この一句の注目すべき点は「まんこの涙」にあります。この隠喩表現が鍵です。指し示すものが中出し後にこぼれ出た白濁液であることは想像に難くありませんが、「涙」と喩えることで彼女は中出しを望んでいなかったことが窺い知れます。「南無阿弥陀」は第三者視点のお悔やみの言葉といったところでしょうか。

改めて歌を読み返してみると、見えてきませんか?ほんの軽い気持ちで、小遣い稼ぎくらいの気持ちで援助交際に手を染めた少女が悪い大人に騙され望まない性行為を強要され、挙げ句の果てには無理やり中に出され、その悔しさや自身に対する恥ずかしさから目を赤く潤ませる彼女の姿が。



僭越ながら、この一句を詠んで私は「勝った」と思いました。それくらいの自信作でした。

泡姫とはソープ嬢を指す言葉としてしばしば用いられます。つまり風俗嬢です。吉原の時代から、彼女達には客との自由な恋愛が認められていませんでした。客と駆け落ち、といったシチュエーションが物語に描かれていることも少なくありませんね。

そう、泡姫の客への恋心は秘めたる淡いものでなければならないのです。そして語感についても「秘め」と「姫」が重なり、「淡」と「泡」が重なります。

上五と下五を繋ぐ中七の「秘めたる淡い」が意味合いとしても音の響きとしても強い必然性を持っているわけです。ああ、なんて美しいのでしょう。

おわりに

いかがでしたか。ここに書いたことは、私の考えていたことであって、読み手の皆さんに強要するものではありません。ですが、575の中に小さな工夫が散りばめられていること、その言葉から豊かな想像を膨らますことができること。そういった奥ゆかしい面白さがあるということを知って頂けたら幸いです。

今月も、今日の一句をお楽しみください。

一句総評について

映画、音楽、文学、絵画。あらゆる芸術的な創作活動において、私は作者による作品の解説は禁忌だと考えてきた。ロラン・バルトが語った「作者の死」にあるとおり、作品は一度世に出てしまえば作者の手を離れてしまう。作者が作品について語るとき、彼はもう作者ではなく批評家、あるいは読者の一人に過ぎない。

例えば、ある画家が夕焼けを背にした幼稚園の絵を描いたとしよう。その絵を見たある人が、幼稚園が燃えている光景だ、なんて非道徳的なんだ!と腹を立ててしまった。この時、作者であった画家が「実はこの絵は…」と作品を解説することにもはや何の意味もないことをお分かり頂けるだろうか。

別の考え方もあって、作者=想像主であり作品にまつわる全ての真実は作者が握っているというものだ。それはある意味では真理とも言えるのだが、芸術作品においてそれを信じることは野暮だと思わずにいられない。受取手の想像や解釈を許さない芸術など、押し付けがましいだけじゃないか。

マキシマムザホルモンマキシマムザ亮君は歌詞カードの中で曲解説を欠かさず行っており、これはしばしば批判を浴びている。あそこまで振り切れていたらもう別に良いんじゃないかという気もするが、やはり作者による作品の解説には嫌悪感を示す人が少なくない。

表現者の一人として、この問題に私は頭を悩ませ続けてきた。俳句というものは、当然ながら多くを語らない。575、計17文字で行われる表現は、教会の壁面に小さな一輪の花を描くようなものだ。それは、ある時には読み手に無限大の想像の余地を与えることとなるが、その逆に漫然と読み飛ばされることにもなる。

二年半にも及ぶ歌詠みの中で、私は一つの限界を知った。それは、俳句とツイッターの親和性の低さである。数えきれないほどのツイートが流れるタイムラインの中で、たった17文字の一句ツイートにわざわざ目を止め、想像力を働かせるような人がどこにいるというのだろう。「おっばいを チュパチュパチュッパ チャップスだ!」みたいな勢いだけのものが人目につくことになってしまうのは、ツイッターで俳句を発信することの限界なのだ。

少し考えれば分かることであるのに、これを理解するまでに随分と長い時間をかけてしまった。昼夜問わず血眼で探し言葉の砂漠の中から拾い上げた宝石の原石を磨いて生み出した800近い数の作品達は、人の目に触れることもなくまた砂漠へと埋もれていった。

私はこれから、冒頭に述べた禁忌を犯すことにした。月次で行ってきた総評において、特に気に入っていたその月の作品を解説しようと思う。そうすることで埋もれ消えることなく誰かの胸に残り、辛い時にふと思い出して笑ってもらえるような、そんな一句が増えるのではないかと期待をしている。今日の一句を楽しみにして下さっている皆さんには、野暮なことをして大変申し訳ない。ぐだぐだと御託を並べたが、結局は作品だけで勝負し続けられなかった私の力のなさを恥じねばならないのだろう。

俯くおじさん

JR総武線のとある駅のホームで、俯くおじさんを見た。俯くおじさんは右手に持ったSuicaをただ見つめていた。その目は虚ろで、世界中の悲しみを背負っているみたいだった。

僕はその瞬間わかってしまった。何もかもわかってしまった。だから、流れ出した涙を拭いながらこれを書いている。

彼は名を石田弘道という。石田さんは、こう言っては失礼だがどこにでもいる普通のサラリーマンだ。家電メーカーに30年間勤め、それなりの信頼を得て課長になった。石田さんは多くを望まずに生きてきた。かといって、怠惰に生きてきたわけでもない。

25年前に、当時所属していたバドミントンサークルで出会った女性と恋に落ちた石田さんは、2年間の交際を経て結婚した。早いと思わないこともなかったが、彼女、西牧八重さんへの愛情はどんなことがあっても枯れはしないと確信していた。西牧さんにとっても石田さんのひたむきで不器用な愛は、この人と生涯を添い遂げたいと思えるものだった。

そして彼らは、誰かにとっては退屈な、また誰かにとってはこれ以上ないほど幸福な、穏やかな結婚生活を送った。たまにある喧嘩さえ、彼らにとっては愛の表現に他ならなかった。

ただ、彼らは子を授かる事はなかった。子がほしくないわけではなかったが、子作りに励むわけでもなかった。神さまが、私たちにずっと二人でいなさいって言ってるんだね。そう言って微笑む彼女を見て、彼女さえいれば良いと、彼はそう思った。

ところで、彼が見ていたSuicaは定期券だ。3月から9月までの津田沼品川間を自由に行き来できる定期券だ。しかし、僕が彼を見たのは津田沼駅ではない。

西牧八重さんは3月に病床に伏して亡くなった。一人で住むには広すぎる一軒家を売り払って、アパートの一室を借りた彼は、もう津田沼に帰る事はない。

彼は俯いて、今日会社に払い戻すよう言われた定期券を、ただただ、じっと見ていた。

普通の人間

久しぶりにブログを書いています。ここのところ、日々の明るさとは裏腹に心の内は陰るばかりで、生きることの虚しさばかりが返って際立っているような気がします。

僕はすこし目立ちたがり屋なところがあって、人と同じに思われたくないという願望がありました。人と同じ、平たく言えば普通の人間と思われたくなかったのです。そう思われることは、つまり自分が他人と代替可能で、自分が自分である必要が無いことと同義のように思えました。それはもう、生きる意味が無いのと同じでした。

むかし、尊敬していた友人の言葉が今でも呪いのように楔のように頭に刺さって離れません。

「お前は普通の人間だよ。普通の人生を送るよ」

とても悔しく、そうはなりたくない、特別な人間になってやると胸に刻みました。

ところがどうでしょう。あれから数年経って、抱いていた夢は何一つ叶わず、気づけば特筆すべきことも浮かばないような普通の人生を送っています。彼の予言は的中してしまったのでした。

僕のような、特別でありたいと願いながらもそうはなれなかった人間が、きっとこの世の中にはたくさんいて、腐るほどいて、本当に腐ってしまうことも珍しくないことで、それはとても恐ろしいことです。特別になれなかった普通の人間である自分が、明日も生きるための積極的な理由はもう見つかりません。斜面を転がり落ちる石粒のような、怠惰で冷めた日々を続けていくのかと思うと吐き気を催します。

こんな風に人生に白けていると、他人がどうして生きているのか気になり出します。あの人には何か生きる楽しみがあるのかな。それとも、生き死になんて気にしないで生きられるほど何かに熱中しているのかな、と。実際に聞いてみると、生きている理由なんて特にない、と答えられることが多くあります。そんな答えを聞くたびに、自分は子どもの頃から何も変わることができないまま、未だに生きる意味だとか、価値だとか、特別な人間への憧れを捨て切れていないのだということを思い知らされてぐったりします。

自分が叶えられなかった夢を叶えている友人がいて、彼の活躍がとても嬉しくて、誇らしく思っています。と同時に、自身の惨めさに心が黒く塗り潰されていきます。黒い汚れって落ちないんだよなあ、と笑えてくることもあります。

特にオチはありませんが、先日誕生日を迎えて6歳になりました。来年には小学校の入学式も控え、まだまだ長い人生を、なんとか明るく過ごせたら良いなと思っています。

観音小説〜サハスラブジャ・アーリヤ・アヴァローキテーシュヴァラ

前回の観音小説
観音小説 - まつをのオナホマ日記



朝、何かが頰に触れた気がして目を覚ます。穏やかな日曜の午前、日が差す方向に目を細める。そこには愛しい彼の姿があった。

「かんのん…」
「朝です」

寝ぼけた頭が冴えて眼前の光景を明確に意識できるようになって初めて気付く。

千手観音だ。

柔軟剤の香りが効いた柔らかなパジャマの上から彼の手が目覚めたばかりの敏感な身体をなぞり始める。次第に二本、三本と触れる手が増えていき、思わず甘い声が漏れる。

「ぁっ…ぃゃ…」
「嫌だなんて、嘘をついたらバチが当たりますよ」

そう言いながら既に硬くなり始めている彼のバチを見つめて頰を赤く染めながらも、そのバチが当たるのを想像して期待してしまう私がいる。

彼の手は器用に私のパジャマを脱がし数珠の真珠をなぞるような優しさを以って素肌に触れる。肌と肌が触れる境界は朝日に曖昧になり、彼と私が一つに繋がっているような気がした。

「おん ばざら たらま きりく そわか」

真言を唱えると、彼は左手の羂索で私の両手を縛りながら一層多くの手で私の身体をまさぐる。千本の手の一つ一つに付いた眼に細胞の隅まで見られて私の曼荼羅がダラダラと恥ずかしい液体を垂らす。あまりの手の多さに暇を持て余した手が宝鐸をぽーんと打ち鳴らしている。

縛られ抵抗することもできずに下を脱がされて、いよいよ身体中に彼の手が触れる。皮膚に散りばめられた全ての触覚を刺激するかのように彼の1000×5=5000の指が触れ、一気に絶頂へと高揚していった。

「んぁっだめっあっ…んんん!」

弓なりにしならせた身体が奏でる琴の音は穏やかな朝に不釣り合いなほど荒々しく、私はこと切れたように力が抜けてベッドに沈み込んだ。

「ヒクヒクしてますね」

二本の手で私を観音開きながらもう一本の手に付いた眼で私の曼荼羅を見つめながらもう一本の手で私の頰に優しく触れる彼のもう一本の手が私の髪を梳く。

慈悲を注ぎ込まんとするそそり立った胡瓶をあてがわれ、今しがた登りきった山よりもずっと高い山の頂が目に浮かぶ。

「入れて…」

メデューサの髪のようにくねくねと千本の手を宙に舞いさせながら、それでも彼のバチは私の曼荼羅の中心ただ一点目掛けて振り落とされる。

「んんんぁあっ!」

彼の手に見つめられて石のようになった私の身体はただただ彼の慈悲を受け止める。バネに弾かれたように一気に飛び上がり雲を突き抜け見えた山頂。刹那。朝日。紅蓮華。

「んっんっんっだめっああっ…!」



















ニルヴァーナ

喜怒哀楽の全てを超越した快楽に。

そう、涅槃。

ああ、観音様。

千手観音様。

あなたの深海よりも深い慈悲に心からの感謝を。

ここのところ

ここのところ、特に嫌なこともなく平穏な毎日が続いていた。いよいよ、自分も幸せになれるのかもしれない、なんてことを考えていた。

それが突然、今日になって死にたい以外の感情を失ってしまった。さらに悪いことに、誰かを殺したくてしょうがない。死ぬか殺すか、しか考えられない。

一本タバコを吸って、なぜ今日になって唐突にこのような気分になってしまったのか考えてみた。考えれば考えるほど、理由がないということが明確になってしまった。

昔からそうなのだ。突然何もかも嫌になる。感情が死ぬ。ともなって身体も死にたくなる。やり場のなさから他人を殺したくなる。

何がそんなに不満なの?と、人によく言われた。私の方が大変だよ、僕の方が辛いよ、といった言葉も付け加えられていた。正直に言って、何の不満もない。どこを探しても、自分がこんなにも不幸せを感じる理由がない。

かといって病気と言えるほど精神が参っているわけでもない。なんなんだ、と思う。どうやら自分を不幸せにしているのは自分自身であるということは間違いないみたいだ。

毎週書いていたラジオを書けなくなってしまったのはこれの前兆だったのかもしれない。ここのところ一句もちっとも思いつかない。ああもうなんか全部だめだ、という気になる。こういうとき、他人の助言は雑音になる。うるせえ死ね、と思う。救いようがない。

そう言えば、今朝見た夢は幸せだった。昔好きだった人にバレンタインのプレゼントをもらった。いい感じのヘッドホンだった。風が強かった。曖昧な記憶の中に、彼女のなびく髪が美しかったことだけは鮮明に思い出せる。

君は昔に囚われている、と先日友人に言われた。確かにその通りみたいだった。未来に夢も希望もなければ、現在は死にたいだけ。となれば過去に縋るのも無理はないだろう。

ずっと眠っていたい。ずっと夢を見ていたい。夢の中でなら、幸せになれるのかもしれない。起きることがなければ、つまりは、死ぬことができれば幸せになれるのかもしれないな、なんて。