アインシュタイン

そう。


アインシュタインはクンニがうまい。

彼の舌のことを思うと赤方偏移したクとリとトとリとスが不変の高速度に近い稲妻を全身に轟かせ特殊相対「性」理論に裏付けられた時空の歪みを伴って腰をしならせてしまう。一般相対性理論の解でもある宇宙の膨張という真実はクとリとトとリとスの肥大化の理を暗示していたと言える。

トーマス・エッチソンは「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」と言い残したが、彼に言わせれば「変態とは、1%の理性と99%の性欲である」のだ。類いまれなる彼の才能は後世の人々の快楽に溺れた頰の赤らみが光電効果によるものだということも言い当ててしまった。

言ってしまえば、世界は、彼の舌の上に転がされているのだ。

彼の有名な言葉「神はサイコロを振らない」。量子力学への批判として有名だが、結局これはベロの不等式の破れにより論破されてしまった。しかし、彼が本当に言いたかったのはサイコロの話でなければ量子力学の話でもなかった。彼は暗に

「男は腰を振らない」

ということを伝えていたのだ。腰を振るというのはつまるところ、世界一美しい方程式「E = mc^2」に反するものだからだ。野暮ながら分からない方のために説明をすると、この方程式は「Eros = masochistic chinchin」を意味する。

もう一度彼の舌を見て欲しい。お分かり頂けるだろう。

そう。



アインシュタインはクンニがうまい。

2017年7, 8月の総評

人気の一句

7月分をサボっていましたので、二ヶ月分の総評をしたいと思います。




7月に投稿されたこちらの二句が人気でした。中でもやはり圧巻なのは「保母さんと〜」の方でしょうか。

保母、ほのぼの、ほぼ。エッチ、園児。この辺りが語感の統一感とリズミカルな響きを生んでいることは言わずもがな。それはさておき575の中で、ここまで保母さんとの性行為を情景豊かに描けた作品が未だかつてあったでしょうか。微笑む保母さんの決してほのぼのとはしていないおっぱいに甘えた男が顔を押し付けくんすかくんすかしている光景が、私には見えます。

二句目の方ですが、イニシアチブというのは「主導権」みたいな意味合いです。M男ゆえに主導権を握られてしまうわけですね。加えて、恥部も握られてしまうわけです。それはつまり、イニシア恥部なのです。

お気に入りの一句

数が多いので、特に気に入ったものだけ紹介していきます。



特に解説することもありませんが、童貞のくせにちょっとふてぶてしい態度なのがいい感じです。ぼくと墨はかかってます。



これは我ながら素晴らしい作品を生んでしまいましたね。

「たち」という言葉が上五、中七、下五の全てに入っていることにお気付きでしょうか。それだけではありません。「おれ」という言葉も上五、中七、下五の全てに入っているのです。5+7+5=17文字という制約のうち、2×3×2=12文字がこのギミックを構成しつつ、崩れることのない文脈。それどころか、「折れたちんこ」という絶望からの「立ち直れ」という強いメッセージ。

天国で見てるか松尾芭蕉。負けねえぞ。



声に出して読んでください。私からは以上です。



きーみーがーいたなーつーはーとおいーゆーめーのなかーあー

きーみーがーいたなーつーワンナイトーラーブーのなかーあー

おわりに

ここのところ、松尾芭蕉としてのモチベーションが高まってマスターベーションにも精が出ます。より良い一句を詠んでいきますので、皆さんもスタンディングオベーションでお願いします。

ナイフ

カバンの内ポケットに、いつでもナイフを入れている。大きな声では言えないけれど。折りたたみ式のそれは、今日も僕と一緒に電車に揺られながらすやすやと眠る。

今朝は混んだ電車で足を踏まれていた。まるで自分以外の全てに心が無いか、あるいは無機物だとでも考えているかのような顔をした醜い小太りの男だった。日々の生活の中で黒炭を喰らっていると煙を上げてしまいそうになるそんな瞬間に、カバンの中のナイフを思い出すようにしている。

「こんなやつ殺そうと思えば殺せるんだ」

そう思うと不思議と心の中に草原をそよぐ緑色の風が舞い込んでくるのだった。想像の中で動脈を一掻きすると赤色の虹が架かる。即死した男の顔が目を見開いているのが滑稽だ。

殺してやりたい、殺したい、というのとは少し違う。そう、これは優越感だ。ナイフがあれば、他人の命に憐れみすら覚えてしまうことがある。命とは、なんてちっぽけだろう。

今日もすみません、すみませんと繰り返しながら何に謝っているのかも分からないまま仕事を終えた。会社のトイレで胃液の絡んだ黒炭を吐いた。空っぽの胃にコンビニのパンを詰め込んでから、それも駅のトイレで吐いた。ナイフはそんなことを気にも止めずにすやすやと眠る。

死にたいと、いや、もう生きたくないと思うような夜も、ナイフのことを考えると湖のしじまに浮かんでいられる。

「こんなやつ殺そうと思えば殺せるんだ」

命とは、なんてちっぽけだろう。

2017年6月の総評

人気の一句



今月はこちらの二句が人気でした。

一つ目は「ふっと去る」と「フットサル」を掛けた句ですが、「おまんこに ゴールを決めて」というフレーズがとても気に入っています。思わず「ナイシューッ!」と叫びたくなりますし、ゴールを決めた後のふっと去る姿がとても渋いですね。

二つ目は世間を賑わせている藤井四段の一句。「余談」と「四段」の韻が目立ちますが、これも「挿されてえ」と将棋の「指されてえ」が掛詞になっていることにお気付き頂けたでしょうか。

藤井四段の活躍には乾いたおまんこも踊り出すようなワクワクを覚えますね。今後のさらなる活躍を期待しています。

お気に入りの一句

今月のお気に入りの一句を紹介していきます。



「乳房」と「恥部」で韻を踏みつつ、「乳房」と「仕草」でも韻を踏む。上五が中七と下五にも掛かっていくテンポの良さが気に入っています。

恥じらう仕草ほど性欲を唆るものもありませんね。恥じらいのないセックスなど、動物の生殖行為に過ぎません。私は特に恥じらいと快楽で赤く染まる頰が好きです。



隠喩と韻に富んだ一句となりました。「ピルクル」とは、ヤクルトの類似品と言われることの多い乳酸飲料です。乳というところから、精液を連想させるわけです。無理がありますね。

この一句、「ピル」と「ピルクル」の韻に目を奪われがちですが、実は「皮」を英語にすると「ピール」となり、そこにも掛かっているというギミックがあります。

ちなみにピールは果物の皮を意味し、仮性包茎の皮をピールで例えることでバナナを連想させているわけです。我ながらうまいこと詠んだな、と思いました。



この一句で、いよいよ私も俳人になれたんじゃないだろうかと感じます。

久里浜」という地で「潮の香り」を嗅ぎ海を感じるとともに、潮風に「べとついて」いる肌や髪に眉をしかめる。そんな夏らしさのある情緒溢れた一句です。

が、「潮」は女性をくじらに例えた潮でもあることに気が付くと、途端に「べとついて」のイメージが変わります。それどころか「久里浜」すらクリトリスを連想させるのです。クリトリスの浜ってなんだろう。想像が膨らみますね。



エとコって見間違えますよね。



「お、ち、ん、ぽ❤️」が句点も含めて7音になっています。皆さんもこの一首を声に出して読んでみてください。日常の嫌なことがどうでもよくなりますよ。

おわりに

正直に言うとここのところなかなか作品ができません。どんな言葉を思い浮かべても「あ、これ前にも詠んだわ」となってしまうのです。

表現者として自分を追い詰めながらなんとか奥床しい一句を詠もうと努めていますので、ふとした時に気にかけて頂ければ幸いです。あなたの応援が作品を生み出す原動力なのです。

2017年5月の総評

人気の一句


今月の人気一句はこちら。「嘘でも抱いて」は原曲歌詞の「嘘でも抱かれりゃ あたたかい」から来ています。JASRACに怒られそうですね。ちなみに、これを見た後に歌を聴くと「あなたと越えたい 天城越え」が下ネタに聞こえてきます。実際下ネタなのかもしれません。天城越えの人気ぶりに驚くと同時に、石川さゆりさんすげえなあといった所感です。

お気に入りの一句

今月のお気に入りの一句を紹介していきます。


「棒」と「嬢」で韻を踏んでいることは言わずもがなですが、この一句、情景がとても鮮明に浮かぶんですよね。

アダルトな文化に自慰を自撮りする女の子というジャンルがあります。一部の偏った性的嗜好を抱えた方々から熱い支持を受けるこちらですが、基本的には固定カメラの前で女の子がオナニーをするという構図となります。

実は、私はこの一句の中である提案をしているのです。それは自撮り棒の棒でオナニーをしながら自撮りしたら生々しくダイナミックでマニアックなエロティックな映像が撮れるのではないかというものです。自撮り棒で自慰をする女の子を想像してみてください。なんて滑稽なんでしょう



「処理」と「女子」で韻を踏んでいますね。注目すべきは上五(かみご:始めの五音)と中七(なかしち:間の七音)の締めで韻を踏んでいることです。こうなりますと、下五(しもご:終わりの五音)でも韻を踏むことが予想されます。が、実際には「夏は来た」とあえて韻を踏まず、完了形の言葉を用いています。読み手の予想に対する裏切りによってその言葉の力強さが強調されているのです。この手法は楽曲などでも効果的に使われていて、例えば大サビの入りで一拍休符を用意することで「あ、サビが来る!」という聴き手の予想を裏切ることによりいっそうサビの印象を強くしていたりします。



「ちんちん」と「禁忌」で韻を踏んでいますね。また韻かよ、と思ったあなた。韻にばかり気を取られてその後のギミックを見落としていませんか?いえ、お気付きですよね、野暮でした。

ちなみに私が始めて買ったCDはKinKi Kidsの「僕の背中には羽根がある」でした。



「中出しの一句」というのが少々野暮だったかもしれません。例に漏れず「涙」と「阿弥陀」で韻を踏んでいます。また、「溢れ出す」というフレーズが「涙」を導いていますね。

この一句の注目すべき点は「まんこの涙」にあります。この隠喩表現が鍵です。指し示すものが中出し後にこぼれ出た白濁液であることは想像に難くありませんが、「涙」と喩えることで彼女は中出しを望んでいなかったことが窺い知れます。「南無阿弥陀」は第三者視点のお悔やみの言葉といったところでしょうか。

改めて歌を読み返してみると、見えてきませんか?ほんの軽い気持ちで、小遣い稼ぎくらいの気持ちで援助交際に手を染めた少女が悪い大人に騙され望まない性行為を強要され、挙げ句の果てには無理やり中に出され、その悔しさや自身に対する恥ずかしさから目を赤く潤ませる彼女の姿が。



僭越ながら、この一句を詠んで私は「勝った」と思いました。それくらいの自信作でした。

泡姫とはソープ嬢を指す言葉としてしばしば用いられます。つまり風俗嬢です。吉原の時代から、彼女達には客との自由な恋愛が認められていませんでした。客と駆け落ち、といったシチュエーションが物語に描かれていることも少なくありませんね。

そう、泡姫の客への恋心は秘めたる淡いものでなければならないのです。そして語感についても「秘め」と「姫」が重なり、「淡」と「泡」が重なります。

上五と下五を繋ぐ中七の「秘めたる淡い」が意味合いとしても音の響きとしても強い必然性を持っているわけです。ああ、なんて美しいのでしょう。

おわりに

いかがでしたか。ここに書いたことは、私の考えていたことであって、読み手の皆さんに強要するものではありません。ですが、575の中に小さな工夫が散りばめられていること、その言葉から豊かな想像を膨らますことができること。そういった奥ゆかしい面白さがあるということを知って頂けたら幸いです。

今月も、今日の一句をお楽しみください。

一句総評について

映画、音楽、文学、絵画。あらゆる芸術的な創作活動において、私は作者による作品の解説は禁忌だと考えてきた。ロラン・バルトが語った「作者の死」にあるとおり、作品は一度世に出てしまえば作者の手を離れてしまう。作者が作品について語るとき、彼はもう作者ではなく批評家、あるいは読者の一人に過ぎない。

例えば、ある画家が夕焼けを背にした幼稚園の絵を描いたとしよう。その絵を見たある人が、幼稚園が燃えている光景だ、なんて非道徳的なんだ!と腹を立ててしまった。この時、作者であった画家が「実はこの絵は…」と作品を解説することにもはや何の意味もないことをお分かり頂けるだろうか。

別の考え方もあって、作者=想像主であり作品にまつわる全ての真実は作者が握っているというものだ。それはある意味では真理とも言えるのだが、芸術作品においてそれを信じることは野暮だと思わずにいられない。受取手の想像や解釈を許さない芸術など、押し付けがましいだけじゃないか。

マキシマムザホルモンマキシマムザ亮君は歌詞カードの中で曲解説を欠かさず行っており、これはしばしば批判を浴びている。あそこまで振り切れていたらもう別に良いんじゃないかという気もするが、やはり作者による作品の解説には嫌悪感を示す人が少なくない。

表現者の一人として、この問題に私は頭を悩ませ続けてきた。俳句というものは、当然ながら多くを語らない。575、計17文字で行われる表現は、教会の壁面に小さな一輪の花を描くようなものだ。それは、ある時には読み手に無限大の想像の余地を与えることとなるが、その逆に漫然と読み飛ばされることにもなる。

二年半にも及ぶ歌詠みの中で、私は一つの限界を知った。それは、俳句とツイッターの親和性の低さである。数えきれないほどのツイートが流れるタイムラインの中で、たった17文字の一句ツイートにわざわざ目を止め、想像力を働かせるような人がどこにいるというのだろう。「おっばいを チュパチュパチュッパ チャップスだ!」みたいな勢いだけのものが人目につくことになってしまうのは、ツイッターで俳句を発信することの限界なのだ。

少し考えれば分かることであるのに、これを理解するまでに随分と長い時間をかけてしまった。昼夜問わず血眼で探し言葉の砂漠の中から拾い上げた宝石の原石を磨いて生み出した800近い数の作品達は、人の目に触れることもなくまた砂漠へと埋もれていった。

私はこれから、冒頭に述べた禁忌を犯すことにした。月次で行ってきた総評において、特に気に入っていたその月の作品を解説しようと思う。そうすることで埋もれ消えることなく誰かの胸に残り、辛い時にふと思い出して笑ってもらえるような、そんな一句が増えるのではないかと期待をしている。今日の一句を楽しみにして下さっている皆さんには、野暮なことをして大変申し訳ない。ぐだぐだと御託を並べたが、結局は作品だけで勝負し続けられなかった私の力のなさを恥じねばならないのだろう。

俯くおじさん

JR総武線のとある駅のホームで、俯くおじさんを見た。俯くおじさんは右手に持ったSuicaをただ見つめていた。その目は虚ろで、世界中の悲しみを背負っているみたいだった。

僕はその瞬間わかってしまった。何もかもわかってしまった。だから、流れ出した涙を拭いながらこれを書いている。

彼は名を石田弘道という。石田さんは、こう言っては失礼だがどこにでもいる普通のサラリーマンだ。家電メーカーに30年間勤め、それなりの信頼を得て課長になった。石田さんは多くを望まずに生きてきた。かといって、怠惰に生きてきたわけでもない。

25年前に、当時所属していたバドミントンサークルで出会った女性と恋に落ちた石田さんは、2年間の交際を経て結婚した。早いと思わないこともなかったが、彼女、西牧八重さんへの愛情はどんなことがあっても枯れはしないと確信していた。西牧さんにとっても石田さんのひたむきで不器用な愛は、この人と生涯を添い遂げたいと思えるものだった。

そして彼らは、誰かにとっては退屈な、また誰かにとってはこれ以上ないほど幸福な、穏やかな結婚生活を送った。たまにある喧嘩さえ、彼らにとっては愛の表現に他ならなかった。

ただ、彼らは子を授かる事はなかった。子がほしくないわけではなかったが、子作りに励むわけでもなかった。神さまが、私たちにずっと二人でいなさいって言ってるんだね。そう言って微笑む彼女を見て、彼女さえいれば良いと、彼はそう思った。

ところで、彼が見ていたSuicaは定期券だ。3月から9月までの津田沼品川間を自由に行き来できる定期券だ。しかし、僕が彼を見たのは津田沼駅ではない。

西牧八重さんは3月に病床に伏して亡くなった。一人で住むには広すぎる一軒家を売り払って、アパートの一室を借りた彼は、もう津田沼に帰る事はない。

彼は俯いて、今日会社に払い戻すよう言われた定期券を、ただただ、じっと見ていた。