スタジアムライブはもう行かない〜2019.6.22RADWIMPSを見て〜




はじめに断っておきたいのですが、私はRADWIMPSというバンドの大ファンです。決して古参とは言えないけれど、『25コ目の染色体』がJAPAN COUNTDOWNのタイアップを受けたときから音楽好きな兄と狂ったように聴き、何度もライブへ足を運びました。夜中に車を走らせて行った「青とメメメ@仙台みちのく杜の湖畔公園」の土砂降りで泥んこの足元も、普段関わることのないピアスバリバリギャルに『有心論』のCDを貸したのも、今となっては良い思い出です。ライブハウスで見た『バグッバイ』の神々しさは、きっと一生忘れることはないでしょう。

ANTI ANTI GENERATION TOUR 2019

そんな大好きなRADWIMPSのライブにここ最近は行くことができておらず、思い立って新作のツアー「ANTI ANTI GENERATION TOUR 2019」に行ってきました。久しぶりに生でRADWIMPSを観るのもあって、胸を高鳴らせて会場へ向かいました。

会場はZOZOマリンスタジアムで、ELLEGARDENの活動再開ライブを場外で聴いたことがあるだけで、中には入ったことがありませんでした。

会場入りして、おびただしい数の人がいて、だけれども最初に思ったことは「へえ、こんなところでライブやるんだ」でした。スタジアムなので仕方がないことなのですが、ステージの横ではいくつもの企業広告が激しく自己主張をしていて、なんとなく、これからライブだ!という高揚感が沈んでしまった気がしました。そうして、あまり乗りきれないままにライブは始まりました。

細かいセトリや、MCについてはここでは書きません。3万人以上の聴衆が生む熱狂のエネルギーは凄まじく、それに応えるべくRADWIMPSのメンバーも熱い思いでライブをしていました。

が。正直に、正直に言って「音楽体験」としては最低なものでした。ボーカルのみならず、コードやリズムの音さえもが広い会場内で反響してぼやけ、乗るに乗りきれず、何が鳴っているのかもよく分からない。広過ぎて観客の手拍子も合わず、会場の一体感もない。曲というものは聞いたことがあればある程度脳内で補完することができるのですが、それもままならないほどぐちゃぐちゃな音。バンドのメンバーも観客も熱い思いでライブに挑んでいるからこそ、実際に耳から入ってくる情報の劣悪さとのギャップを生み、いたたまれない気持ちに襲われながらライブを終えてしまいました。

もしかすると、聴いている場所によっては、上記のようなことはなかったのかもしれません。でも、想像するに、会場の大多数の耳に届いていたのは、バラードもロックチューンも常時テンポに合わないエコーが全楽器にかけ続けられている音楽の体をなしていないものだったのではないでしょうか。

スタジアムは音楽の場所じゃない

このライブを通して、私はスタジアムが音楽のあるべき場所ではないと確信しました。

幼い頃、何度か東京ドームでMr.Childrenのライブを見たことがあって、それはそれでとても楽しかった思い出として残っているのですが、初めてライブハウスでHYのライブを見たとき、その衝撃に心を震わせたのをよく覚えています。音楽が鳴っている間は隣の人とおしゃべりすることもできない爆音で、衣服は音で揺れて、心臓の深いところまで突き刺される体験。確かにそこで音楽が鳴っているという緊張感。感動した私は、完全にライブの虜になったのでした。

Mr.ChildrenRADWIMPSのような超有名なバンドにとって、そういったライブハウスでライブをやることが現実的でないことは分かっているつもりです。大きくてもたかだか数千人しか入らないライブハウスではチケットもなかなか取れませんし、多くのファンに音楽を届けるならば大きな会場を選ぶことは合理的な選択でしょう。

それでも、今回のライブで野田洋次郎さんがMCで言っていた「音楽とずっと、正面から向き合ってきた」という言葉を私は信じたいと思います。わがままは百も千も承知で、もし、本当に音楽をちゃんと届けたいなら、スタジアムで3万人集めるよりも、3千人規模のライブハウスで10回ライブをやってほしい。(もっというと3百人規模のライブハウスで100回ライブして欲しいけどさすがにわがままが過ぎますね…)

もし、今回のANTI ANTI GENERATION TOUR 2019 ZOZOマリンスタジアムのライブがあなたにとって初めてのライブ体験だったなら、一度でいいからライブハウスに足を運んでみてほしいです。もし今回のライブを聴いて、やっぱり音楽はCDやストリーミングの音源を聴いた方がいいや、と思ってしまったなら、それはとてもとても寂しいことです。ライブハウスは先に書いたとおり、本当に音が大きいので苦手な方もいるかと思いますが、きっと今まで味わったことのないような感動が待っているはずです。

今回のRADWIMPSのライブについてあれやこれや悪く書いてしまいましたが、本編最後の『愛にできることはまだあるかい』は、それでも素晴らしいものでした。初めて聴いたにも関わらず、演出も相まって、深く胸を打たれました。

RADWIMPSの音楽が好きだからこそ、次はライブハウスで聴きたいと切に願いDADAをこねたブログにお付き合い頂きありがとうございました!

食べログ星3つと殺された思い出




物騒なタイトルですね。こんばんは、まつをです。シックスパッド的な何かを手に入れて毎晩お腹に電気を流しています。腰に貼るとマッサージみたいでとてもGOODなので皆さんもぜひ。陰部に貼るとインポーコスパークするので注意が必要です。

食べログめっちゃ便利

さて、皆さん食べログを利用したことはありますか。ありますよね。ええ、あります。そうなんです、みんな食べログを使っています。あれほど便利なもの、この世の中に早々ありません。テンガの次くらいに便利です。

忘年会の幹事を任されたとき。旅先でお腹を空かせたとき。女性とデートに出かけるとき。様々な場面で、食べログはあなたを手助けします。ひとむかし前なら、実際に出向いて居酒屋の雰囲気を調べたり、宴会の予約を取るために色んなお店に電話をかけたり、なんてこともあったようです。想像を絶しますね。

そんな食べログを見るとき、やはり気になるのはみんなの口コミ、評価の点数です。写真を見て良いなあ、と思っても、口コミが少なかったり評価の点数か低かったりすると、それを理由に選択肢から外してしまうこと、ありませんか。私はあります。パッケージが良くても口コミ評価が芳しくないアダルトビデオにはなかなか手が伸びないものです。

この口コミや評価はお店にとっても深刻で、高い評価をきっかけに行列のできるお店になってしまうことなんかもあるみたいですね。旅先で、食べログの評価が良いお店に行ってみたら行列で1時間待ち……なんてことを私もしばしば経験しました。

思い出のうどん

母方の祖父母は実家から車で10分ほどのところに住んでいて、一緒にご飯を食べる機会があるとよく色んなものをご馳走になりました。ちなみに祖母は、この世界に3人しかいない私の容姿を褒めてくれる方です。もう2人は母と私です。

ご馳走になったものの中でも特に好きだったのが、祖父母家近くのおうどん屋さんの食事でした。うどんはとにかくコシがあって、もちもちしこしこしてうんまい。天ぷらも揚げたてのサクサク、かぼちゃなんて絶品です。さらにさらにおススメは鳥の唐揚げで、唐揚げというよりも竜田揚げに近い見た目、味なのですが、カリッカリに揚げられていてこれがもう涙ちょちょぎれものです。

大人になって実家を離れてからというもの、すっかり足が遠のいてしまったあの思い出のおうどん屋さん。なかなか名前も思い出せず、地名とうどんのキーワードでなんとか見つけ出し、名前を思い出し、喜び勇んで私はとあるリンクをタップしました。



そして、私の思い出は殺されました。



私の目に映ったのは、思い出のおうどん屋さんの店名横に星3つが並べられた食べログでした。

食べログの評価がすべてだなんて、私も思いません。それでも、私の中であのおうどん屋さんは文句なしの星5つで、亡くなった祖父との思い出で、離れ離れに暮らす家族との思い出で、私にとってはかけがえのない、この世界で一番のおうどん屋さんでした。それが、名前も知らない人たちによって付けられた星3つで、否定されたような気持ちになってしまったのです。

食べログはめっちゃ便利だけど

食べログはとにかく便利です。食べログの無い生活はもはや考えられません。色んな場面で私たちの役に立ち、生活を支えていると言っても過言ではありません。

でもたまに、たまには、食べログなんか調べないで、ふと目に留まった町の定食屋さんに、ちょっと高級そうなお寿司屋さんに、怪しい雰囲気のうなぎ屋さんに、古ぼけた木造建てのおうどん屋さんに、入ってみませんか。もしかしたらそのお店が、誰の評価なんかも関係なく、あなたにとって一生の思い出に、一番のお店になるかもしれません。

逆に、入って失敗だったと腹を立ててお店を出てしまうかもしれません。でも、口コミ評判サイトで調べて、良さそうな、あるいは無難なお店だけを選んでいたら絶対にできないような、そんな経験を得る可能性が、そこにはあると私は信じています。

思い出のおうどん屋さんには、夫と娘を連れてつい先日行ってきました。最高においしくて、家族も大喜びで、食べログには書かないけれど、お店の名前も誰にも教えないけれど、思い出のおうどん屋さんはやっぱり、私にとって星5つのおうどん屋さんでした。

ぼくは友達と遊びたい



こんにちは、まつをです。久しぶりにブログを書きます。本題の前に近況を話しますと、先日キングダムハーツの1.5、2.8、3を購入して廃人と化しています。もはやカイリのことしか頭にはありません。子どもの頃、カイリへの愛情が歪みに歪んで宇多田ヒカルに恋をしていたのはここだけの秘密です。

遊びたい

さて、本題です。タイトルに書いたとおり、ぼくは友達と遊びたい!遊びたい!遊び足りない!遊び足りない!繰り返される諸行無常!よみがえる性的衝動!冷凍都市の暮らし!行方知れずのアイツ!いつのまにか姿くらまし!

こんな話をすると「お、飲みに行こうよ!」みたいに声をかけてもらえたりしますが、ちがう、そうぢゃない。頭の中のJKが首を横に振ります。その時、揺れる髪からふわりとバーベナの香りが漂って脳内麻薬勃起侍になります。

いえ、飲みに誘ってもらえるのは本当にありがたいことで、嬉しいものなのですが、ぼくの言っている「遊び」は、そういうことではないのです。ぼくたちはいつのまにか、遊び=飲みと言われても違和感を感じない大人になってしまいました。

思い出してみてください。ぼくたちの陰部がまだモンジャラではなかった頃、ぼくたちの遊びといえば、町中を走り回り、自転車で駆け抜け、隣家の窓ガラスに石を投げてヒビを入れ、駄菓子屋の蒲焼さん太郎をつまみに公園で水道水を飲む。そういうものだったのです。酒も女もタバコもギャンブルもいりません。それでも馬鹿みたいに笑いあって、ヘトヘトになって、17時のチャイムが鳴ったら「じゃあね、バイバイ」とだけ言いあって別れてしまう。

どうしてぼくたちは、あの遊びをしなくなってしまったのでしょう。いつしか遊びといえばボーリングになって、スポッチャになって、カラオケになって、ショッピングになって、旅行になって、スノボになって、女遊びになって、麻雀になって、パチンコになって、飲み会になって、ゴルフになって……

ぼくは、遊びたい。町中にある、名前があるかどうかも分からない公園で。大人がそんなことをしていたら不審かもしれないけれど、そんなの、誰が決めたんだ。ぼくは遊ぶ、遊ぶぞ。

そんなわけで、ぼくが今遊びたい思い出の遊びをいくつか紹介します。お、と思うものがあったら今度一緒に遊びましょう。

ベーゴマ

コマでもなくベーゴマです。ベーゴマ。あれ、めっちゃ楽しいのをご存知ですか。

ぼくが小学生高学年の頃に現れた用務員さんはエレキギターが弾けるカッコいいおっちゃんでした。一方ぼくは、周囲から貴乃花と揶揄されてもめげずにチョコボールを食べ続け金のエンゼルを引き当てるような子どもでした。

シンプルにデブ(SD:Simple Dev)だったので、この頃のぼくには休み時間に校庭で駆け回るようなわんぱくさはありませんでした。そんなとき、カッコいい用務員さんはSDなぼくにベーゴマを教えてくれたのです。

ぼくはベーゴマに夢中になりました。コマとコマがぶつかり合う瞬間の「キンッ」という音、不規則な動き、時に起こる火花。鉄の匂いが染み付いた指で、人生をかけるみたいに何度も紐を巻く。

休み時間に用務員室の前でベーゴマに人生をかけるSD。この頃、不確定だったぼくの未来は非モテルートに確定されたように思います。

マンホール踏み

ぼくの地元ではなぜか、缶蹴りよりもマンホール踏みという遊びがポピュラーでした。その名前どおりの遊びで、オニが30秒数えている間に散り散りになった子どもたちが、オニの目を盗んでマンホールを踏む、というもの。缶蹴りのマンホール版ですね。同じように、オニは隠れた友達を見つけたら、先にマンホールを踏むことで相手を捕まえることができます。

よくよく考えてみると、見つけただの見つかってないだの、先に踏んだだの、誰が判定できるわけでもないので、ぼくたちの遊びはかなりの比重でぼくたちの誠実さに委ねられていたように思います。

ところで、「マンホール」ってとても、

たすけ

たすけ、という遊びをご存知ですか。これはローカルな遊びですか。もしかしてぼくはいま着々と自身の出身地を晒していますか。

ぼくたちのたすけ、とは、ドッジボールの亜種のようなものでした。

  • 陣地はなく、一緒に遊んでいる全員が敵
  • ボールを持っている人は3歩だけ動ける
  • ドッジボール同様、当てられた球を落としたらアウト
  • アウトになったら、その相手がアウトになるまで場外(転がったボールを拾ってあげたりはするが、ドッジボールの外野とは異なり戦うことはできない)
  • 最後まで残った1人が勝ち といった具合です。

これがまあ、なかなか盛り上がるのです。場外になったプレイヤーは、早く参加したいので自分を倒した相手がアウトになるよう他のプレイヤーを応援します。だいたい残り2人くらいになるとどちらも大量の犠牲の上に立っているので、他方がやられた瞬間に場外だったみんなが戦場に戻ってくるわけですね。

ぼくは運動音痴な上にSDだったので無論球技も苦手だったのですが、たすけは好きでした。決して強くもないしすぐにやられるのですが、球技にしては珍しく自分が下手くそでも誰にも迷惑をかけないんですね。その上、多くの人が一同に参加できる。

こういう球技って、実は他に無いんじゃないかと思います。大抵の球技はチームを求められるし、そうでない球技は個人戦で参加できる人数が限られます。自分以外みんな敵、というのはとてもスリリングですし、個人戦といいつつ自分がやられたら敵討ちをして欲しいので誰かを応援するというイベントが発生し、その誰かがやられてもそもそも先にやられた自分のせい、という構造になっているわけですね。

あー、書いていたらめっちゃたすけやりたくなってきました。ちなみにたすけは10人以上の大人数でやると楽しいです。

秘密基地作り

君と夏の終わり 将来の夢

大きな希望 忘れない

10年後の8月 また出会えるのを 信じて

最高の思い出を…







めんまあああああああああああああ!!!!!!!!





ぼくの地元では、秘密基地作りとはもっぱら「穴を掘ること」でした。まったくもって意味不明なんですが、秘密基地作りと称してがむしゃらに穴を掘っていました。それはもうamazarashiもびっくりするくらい穴を掘っていました。きっと、あのまま掘り続けていたら地下都市カッパドキアが出来上がっていたのだろうと思います。

秘密基地作り(穴掘り)の副産物的な遊びとして、泥だんご作りがありました。泥だんご作りはなかなか奥が深く、土質を考慮してコア部分と表層部分で使用する土を使い分けたり、混ぜる水量を調整することでより美しく、硬い泥だんごを作り出すことができます。

だいたい秘密基地作りは草陰になっているマンションの裏などで秘密裏に進められていたので、誰かが近づいてきたら泥だんごを投げつけて威嚇するわけですね。とんだクソガキですね。

秘密基地作りは複数日かけて進められるのですが、穴はある日突然、まるで全てが夢だったかのように埋め立てられて消えているのでした。あの時の寂しさ、悔しさは今でも心に刻まれ、幻の地下都市に想いを馳せてしまいます。

マンション鬼ごっこ

これ!これがいまやりたい!マンション鬼ごっこ!!

名前のとおり、マンションで鬼ごっこをするというもの。逃げていい範囲はマンションの敷地内に限られ、エレベーターや非常階段を駆使して逃げたり追いかけたりするわけですね。マンション内は死角も多いのでかくれんぼ要素もあり、サバイバルの様相を呈するのです。加えて住人に見つかると怒られる、というスリルもあり、住人とすれ違うときはあたかも「友達の家に遊びにきたふり」をしたりします。

SDなぼくは鬼ごっこをすると、すぐにオニになり誰も捕まえられないため、みんなから憐憫の目を向けられ「もういいよ」と言われタッチさせてもらえるという、惨めな子どもでした。

そんなぼくでも、マンション鬼ごっこなら互角に戦えました。「エレベーターで降りていったな…2階で待ち伏せるか」みたいに戦略次第では身体的な能力の差を埋めることができたのです。エレベーターに逃げ込んで扉が閉まるまでの間、オニが向かってくるスリルはさながら、サイレントヒルの廃病院で三角頭が追いかけてきたときのようでした。

終わりに

遊びたい、などと声高に何度も言っていますが、ぼくはあまり友達を大切にできませんでした。怠惰で年賀状はもらっても返さず、自分から友達を何かに誘うこともしませんでした。そうこうしているうちに、小学生の頃いっしょに遊んでいた友達とは誰とも連絡を取り合わなくなってしまいました。

今でも、昼間、家で1人寝転んでいると、約束もないのに窓の外で「あそぼー!」と騒ぐ友達の声が聞こえてきたような気がして、懐かしいような、寂しいような気持ちに襲われることがあります。

「ねえ、大人って楽しい?」

そんなとき、SDの頃のぼくが目の間に現れて、無邪気な笑顔で今のぼくにそう尋ねます。うーん、どうだろう。頭の中のJKが苦笑いをして首を傾けると、揺れる髪からふわりとバーベナの香りが漂って脳内麻薬勃起侍になってしまうのでした。

"unrecognized privilege: 39" Amazon RDS for PostgreSQL

Amazon RDS for PostgreSQLを利用してエラーにハマったのでメモ。

psqlから発行したSQLは次のとおり。

select * from information_schema.columns;

すると次のエラーが発生。

"unrecognized privilege: 39"

Amazon RDSでDBインスタンスのバージョンは10.4

結論

Amazon RDS for PostgreSQL10.4のバグ(あるいは意図された仕様?)っぽい。

確認したこと

  • Amazon RDS上のPostgreSQL10.4で発生する
  • 自PCにインストールしたPostgreSQL10.4では再現しない
  • Amazon RDS上のPostgreSQL10.1では再現しない

対処方法

RDSのインスタンスをPostgreSQL10.1にバージョンダウン

(対処方法と言ってよいのか…)

詳細

どうも、information_schema.columnsビューだけが開けない。information_schemaの他のビューはいくつか確認することができた(具体的なビュー名は忘れてしまった)

権限周りの設定を誤ったかと思いあれやこれや調べたものの、RDS上のマスターユーザでも発生していてAWS特有の事象なんじゃないかなあと思ったら出てきたのが下記のAWSフォーラムのやり取り。

https://forums.aws.amazon.com/thread.jspa?messageID=860564&tstart=0

冒頭に書いたようなことが大体書いてある。 ただ、半年前くらいから発生している事象のようなので、もしかしたらパラメータ変更したりすれば対処できるんじゃないかという気もする。(AWSが意図して初期設定では見られないようにしている可能性)

色々とインターネットの海を潜ってみたもののAWSのコメントは特に確認できず。正しい(バージョンダウンではない)対処方法をご存知の方がいましたらご教授願いたいです。

いずれにせよ、AWS for PostgreSQL10.4を利用する予定がある方は、information_schema.columnsにご注意をば。

部室で見つけた鍵の話

 

あの頃の僕は、途方もなく無邪気だった。自分のことを誰よりも特別だと思っていたし、いつの日か、歴史に名を残すような偉人になって人を救ったりするのだと、そんなことを信じていた。

 

あの日、僕たちは学校の隅に追いやられた薄暗い物置小屋のような部室の中でとんでもない物を見つけた。

 

アンプの物陰から出てきたのは、1つの鍵だった。

 

形状から、すぐにそれが「学校の」鍵であると分かった。本来ならば、学校の鍵は全て職員室で管理されていて生徒が所有することはない。持ち出すにもいちいち申請が必要で、顧問の許可なしには鍵を所持することもできなかった。

僕たちははやる気持ちを抑えて、周囲に先生や生徒の姿がないことを確認して、部室の鍵穴にそれを差した。いとも簡単に、軽い音を立てる。扉は開かない。僕たちは顔を見合わせて、確かめるように、今度はそれを反対周りに回した。カタ、と音が鳴る。扉が、開く。

部室に駆け込んで、僕たちは大声ではしゃいだ。部室の鍵を開け閉めすることができるだけのそれが、まるで自由の象徴みたいだった。なんでもできるような気がした。しかもその鍵の存在は、僕たちだけが知っている。僕たちだけが特別に、持っている。誰かが作った、秘密のスペアキー

 

ひとしきり騒いだあと、僕がその鍵の所有者に任命された。かくして僕たちは、顧問の許可なしでも部室に出入りできるようになった。もちろん、存在が明るみになることを最も恐れていたので、使うのはせいぜい忘れ物を取りに来るときくらいだった。

 

その鍵が、本当にとんでもないものだと知ったのは、それからしばらく経ってからだ。

 

当時僕は兼部していた。どちらも音楽系の部活で、だから同じように、薄暗い物置小屋みたいな部室が別にあった。急ぎの用があり部室に入ろうとしたものの施錠されており、さらに困ったことに鍵を持ち出している部員とは連絡が取れない状況だった。

どうしてその選択肢を思いついたのかは今でも分からない。僕は、あの別の部室のスペアキーを取り出し、そして差した。そして、あろうことか、鍵が、開いた。背筋に電流が走るような衝撃を覚えた。つまり。つまりこの鍵は。

 

それから僕は、秘密を共有する彼らにこのことを伝えた。皆、考えることは同じだった。

 

職員室から遠い、視聴覚室へ行った。

鍵を差す。

開く。

 

僕たちは、これで確信した。確信したけれど、信じられなかった。だから、分かっている答えを答え合わせするみたいに、手当たり次第に、鍵穴を見つけては同じことを繰り返した。

 

その鍵は、学校中の至るところを開け閉めできる、マスターキーだった。

 

どうしてそんなものがあの部室の中にあったのか。到底検討はつかなかったけれど、確かにそれは学校のマスターキーで、絶対に生徒の手の内に存在してはならないものだった。僕たちはワクワクやドキドキを通り越して、嫌な汗をかいていた。たぶんこれは、バレたら、説教とかそんなのでは済まないものだった。

散々悩んだ挙句、結局その鍵は、最初に見つけた後のように僕の手元で管理され、そして頻繁に利用されることはなかった。僕たちには「どこにでも自由に出入りすることができる」という状況だけで、十分だったのだと思う。

 

それでもときどき、僕はこの鍵を使った。

その鍵の存在を確かめるみたいに、トイレの用具入れを開けた。特に面白いものは入ってなかった。

放送委員しか出入りできない放送室を開けた。見たことも無い機械が並んでいた。

夕暮れ時に音楽室を開けた。グランドピアノが夕陽に照らされていた。

休日を狙って校長室を開けた。怖くて中には入れなかった。

秋になると屋上を開けた。プールサイドで読書をした。

 

きっと、悪いことに使おうと思えば色んなことができたと思う。女子更衣室の盗聴とか。職員室の答案を盗むとか。そんな度胸はなかったけれど、僕はこの鍵の存在で、きっと生徒の誰よりも「自由」だった。その自由に、僕は何度も救われた。

 

時が経って、卒業が近づいて、僕はこの鍵を後輩に引き継ぐことにした。彼らも賛同した。この鍵はこの先ずっと、生徒たちの手の中に、隠密に、引き継がれるべきだと思った。僕にとってそうだったように、この鍵が誰かの救いになると思った。

信頼していた後輩に全てを伝え、鍵を渡すと驚いた顔をしたが、その目はキラキラしていた。彼もまた、この鍵を誰かに引き継いでいく。僕は偉大な歴史の一部を担ったみたいに、誇らしかった。

 

あれからもう、10年以上の年月が過ぎた。無邪気だった頃の僕はどこへやら、ありきたりで特に面白みもない日々を過ごしている。特別だった頃の僕はもういない。誰にでもできそうな仕事を、誰にでもできそうな手順でこなし、誰にでもよくあるような愚痴をこぼして、そして繰り返す。

そういえば今朝、ネットニュースに母校が載っていた。

 

「○○○○○○○○校2年女子生徒、屋上から飛び降り自殺か。女子生徒は病院に搬送されたが間もなく死亡が確認された。学校関係者の話によると、屋上は普段施錠されており生徒が出入りすることはできないという」

 

 

 

 

前澤友作はお金と知名度で命を弄んでいる

今朝方、こんなツイートが流れてきました。

https://twitter.com/yousuck2020/status/1084298034870026240?s=21

f:id:Matsuwo:20190114131336j:image

私はこれを見て、本当に嫌な気持ちになりました。こんなに嫌な気持ちになったのは、村本大輔のツイート以来です。

http://matsuwo.hatenablog.com/entry/2017/10/24/213448

どうしてこんな嫌な気持ちになったのか、しっかり言語化しておきたいと思いこの記事を書いています。

結論としては、私は前澤友作のツイートを見て、人の命が弄ばれていると感じました。

「皆さんのRT1件につき10円を付け加え寄付します」

この言葉は、この行為は、あまりに命を軽んじています。大衆の憐憫や同情を餌に、情報を拡散させようとするやり方が吐き気を催すほどいやらしく見えました。

それと同時に、お金と知名度のある人間に目を付けてもらえることで、救われる命と、救われない命が決まってしまうということ。命の重さに大小なんてないのに、ほんの少しのきっかけで救われたり、救われなかったりする。こんな風に人の命が、人の手のひらの上で転がされていることに、これ以上ないくらいの不快感を覚えたのです。

 

言いたかったことは以上のとおりなのであとの文章は読み飛ばして頂いてもよいのですが、リプライ欄を読んだりして思ったことをせっかくなので書き残しておきます。

 

お金の使い方は持ち主の自由だけれど

ツイートのリプライ欄を読んでいると、下記のような論議がなされています。

  • せっかくなら財団を設立したり、もっと有意なお金の使い方がある
  • 他にも助けを待っている命があるのに、その命にだけ救いの手が差し伸べられるのは不公平だ
  • そのお金は前澤友作の持ち物なのだから、使い道は自由である
  • お金持ちといえど、そのお金は有限なのだから、全ての人に手を差し伸べられる訳ではない

どの意見も、正しい、と感じました。お金の使い方について意見を述べているものはたしかに理想論で間違っていないけれど、有限のお金の中で何をなすかはその人の自由です。救われる命と救われない命の不公平を感じるのも正直な気持ちですし、だからといって誰も彼もを救おうというのは無理な話です。

正直なところ、私は前澤友作が自身のお金をどのように使おうが何も思いません。それがスポーツカーのためであろうと、彼女とのホテル代であろうと、風俗であろうと、不動産であろうと、困っている人への寄付であろうと、彼の勝手です。

でも、そのお金の使い道を他人に豪語するのは傲慢な行為だと、私は思います。特に、寄付というのはとてもセンシティブな行為で、他人にひけらかしたりするべきではないと考えています。例えば、街角で、周囲に一万円札を見せびらかしてから募金箱に入れることがあるでしょうか。寄付という行為はその金額の大小で評価されるべきものではないし、個々人の裁量によって静かに行われるべきものだと思います。(この辺りは、有名なYouTuberが寄付した動画をアップして評価されていたりするので、私の感覚が古いのかもしれません)

少なくとも、今回の件のようにRT数に応じて寄付額を増やしますという宣言は、スポーツカーを自慢されるよりもよっぽど不快なものがあります。前澤友作という人は、その命のために自身がどれだけの寄付を行いたいかという明確な意思などなく、情報の拡散のためにお金を利用しているだけのように思えるのです。

 

RT1件につき10円、というやり方だからこそ

リプライ欄を見ていると、RT1件につき10円、という方法で見事に多くの人々に問題提起ができたのだ、という擁護の声があります。これにも、首を傾げざるを得ません。いくらなんでも好意的に捉えようとし過ぎではありませんか。

現在でもすでに40万件以上のRTがあり、たしかにこのやり方だからこその数字だと考えられます。しかし、果たしてこのやり方が本当の意味での問題提起になっているでしょうか。私はこのRT1件につき10円という響きに、100名様に100万円を現金でプレゼントします、と同じものを感じました。実際に、上記の募金のためのツイートに付される文章がRT1件につき10円であっても、100名様に100万円であっても、なんら変わりはなかったように思います。私には、寄付を呼びかける前澤友作のツイートが、お年玉プレゼントのツイートと全く同じ遊び心だけで行われているように見えて仕方がありません。

心臓移植とその寄付、命のこと。これらの話は、こんな軽い言葉で扱われて良いものだとは思えません。

「この件に心を痛め、寄付をしました。皆さんも情報の拡散、寄付にお力添えください」

たったこれだけの言葉で良かったのではないでしょうか。真摯さを欠いた情報の拡散で、果たしてどれだけの方にしっかりと問題提起ができるのでしょうか。申し訳ありませんが、私は前澤友作のツイートを見て心も痛めませんでしたし、力を貸したいとも思うことはできませんでした。

 

心臓移植の問題について

この問題について、私は正直あまり知識がありません。誤ったことを書いていたらご指摘頂ければと思います。

 

簡単に言うと、心臓移植とは末期の心疾患で代替治療の方法がない患者さんを、脳死状態の臓器提供者の健康な心臓を以って治療することです。

日本においても1997年に臓器移植法が施行され、脳死後の臓器の提供が可能となりました。2010年には改正されたものが施行され、本人の意思が不明であっても家族の承諾で提供することが可能となりました。また、この時15歳未満の臓器提供も可能となりました。

ただ、残念ながら日本のドナー提供者は他国と比べるとかなり少ない、というのが現状のようです。したがって、臓器提供が必要となる少なくない患者さんが、治療を受けることができないでいます。そのため海外で治療を受けるという選択肢を取ることになるのですが、かなりのお金が必要となるようです。

今回前澤友作が取り上げた件は、心臓移植を余儀なくされたとある子どもが日本では治療を受けられず、海外で治療を行うために寄付を呼びかけているものです。気にかけられた方は、寄付を行うと良いと思います。

https://www.genki-o-chan.com

 

醜い部分を曝け出すと、私には、この子が救われるべきかどうか、答えを出すことができません。そもそも、救うとか救わないとか、おこがましいとすら思ってしまいます。私には、この子に手を差し伸べるための明確な理由がありません。3億5千万円という途方もないお金が、なぜこの子のために集められなければならないのかが分かりません。そのお金が、果たして最後には誰の喉を潤すのかも知りません。どれだけの同情を勝ち取れたか、そのためにパフォーマンスできたか、そういった密かな争いの果てに、私はこの子のことを知ったのでしょう。それはおそらく、前澤友作にしても同じことだと思います。同情を勝ち取ることで救われる、お金を集めたものが助かる。それを否定することも、ましてや馬鹿にすることなどできるはずもありませんが、どこかで違和感を覚えてしまう理由について、私はまだ答えを出せずにいます。

 

落書きにかっこいいタイトル付けて芸術にしよう

お久しぶりです、まつをです!

すっかり秋も過ぎ去りそうな寒い日が続いていますが、今日は芸術の秋がテーマです。

 

私は幼い頃から、美術大学を出ていた父に誘われよく美術館や展示会に行ったものでした。一枚一枚の絵とじーっと向き合い、離れたり、近づいたり。想像を膨らませて絵を見るのが今でもとても好きです。

 

ところがどっこい!

好きとはいうものの、私には絵の良し悪しがさっぱり分かりません。好き嫌いはあるのですが…。特に、抽象的な絵になってくるといつもの楽しみである想像を膨らませることもできなくなってしまいます。私のひ弱な想像力では、とても抽象画に太刀打ちできない…

 

しかし、そんな私にも救いの手が!

そうです、タイトルです。難解な絵でも、タイトルがあるだけでだいぶ印象が変わります。ふむふむ、タイトルは『眠る女の子』かあ。あ〜なるほど!この丸は人の頭かな?そしたらこのお山はおっぱいだ!!

と言った具合に、タイトルは私の絵の理解の助けとなってくれます。(タイトルがあることで、逆に観る人の自由な感じ方を奪ってしまうこともありますが…)

 

そこで私は考えました。逆説的に、それっぽいタイトルを付ければ適当な落書きも芸術作品になってしまうのでは!?

 

と言ったわけで、今日は私が適当に描いた落書きにかっこいいタイトルをつけて紹介していきたいと思います。

 

1.「〜、あるいは〜」

はい、それでは最初の作品です。

 

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『熟れたトマト、あるいは命の象徴』

 

か〜っ!!かっこいい!!!

 

最初はなんだこれと思った皆さん、いかがですか。タイトルを見た途端にぐっと来ませんか?来ませんね?そうですか。

 

私はこの「〜、あるいは〜」というタイトルが下半身が濡れるくらい好きです。え、結局どっちなん?その二つ全然ちがない?あれ???みたいな気持ちになってパラサイト・イヴになってしまいますね。

 

2.羅列

続いてはこちらの作品です。

 

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『静寂、夜更け、後悔』

 

か〜っ!!おしゃれ!!!

 

それっぽい単語を適当に羅列するだけで何故だか雰囲気が出てしまうこの手法。私の大好きなART-SCHOOLというバンドも歌詞でよく使っています。「夕陽、ポプラ、テニスコート」とか「売春婦、レプタイル、11月の祈り」とか。このよくわからんけどなんか分かる感がめちゃくちゃ良いですよね。言葉と言葉の隙間を埋めるように想像力が刺激されますし、例えるならえっちなシーンだけ切り取って繋げたAVのサンプル動画みたいなものでしょうか。

 

3.ジブリ

どんどん行きましょう。次の作品はこちら。

 

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『庭園の親子の戯れ』

 

あ〜っ!!風の谷のナウシカ!!!

 

ジブリタイトルで「の」が使われるとヒット作になるという都市伝説がありますが、「〜の〜」と繋げると俄然タイトルっぽくなります。

 

意味合いとしては『庭園で戯れる親子』でもよいわけですが、『庭園の親子の戯れ』の方がタイトルとしてがつんと来ませんか?来ませんね?そうですか。

 

ちなみに私は千と千尋の神隠しが好きです。

 

4.Untitled

最後はこちらの作品。

 

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『無題』

 

で、でた〜〜!無題!!どう見てもおまんこじゃん!!!

 

定番も定番、『無題』ですね。もうこれ、タイトルだけで今夜はアダルトサイト巡りをしなくても良いくらいのおかずになります。字面から音の響きから何から何までかっこいい。私も下の名前は無題が良かったです。松尾無題。

 

『無題』の良いところは観る人の想像の余地を奪わないところにもあるのですが、その上作者の「この絵には意味なんかないんだよ」みたいな斜に構えたメッセージも読み取れて胸がずきゅぅぅうんなりますね。どう見てもおまんこなんですけど。

 

おわりに

お付き合い頂きましてありがとうございました。いかがでしたか?適当な落書きでもそれっぽいタイトルをつけるとそれっぽい感じに見えてきますよね。余談ですが、今回の落書きは全てiPhoneのメモ帳で書きました。メモ帳はお絵かきもできて便利ですね。電車の中でおまんこ描いてるときはドキドキしておちんぽがボキボキしました。

 

タイトルがどうのこうのとお話ししてきましたが、絵を見るときに一番楽しいのはその絵が何を訴えかけてくるのか、自分自身が何を感じるのか、と向き合うことだと思います。芸術の秋、たまには美術館に足を運ばれてはいかがでしょうか。

 

抽象画入門: 視点が変わる気付きのテクニック

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