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俳句と川柳〜芭蕉がみる俳諧〜

こんばんは、松尾芭蕉です。
私のツイッターアカウント松尾芭蕉 (@MatsuwoBaseu) | Twitterも、一句を詠み始めて一年と半年ほどが過ぎました。作品数は500を超えましたが、どれか1つでも皆さんの心に残った一句はあったでしょうか。

今日は昨今の俳諧、私のアカウント運営に対するポリシー、作品への想いについて書きたいと思います。

俳句とは?川柳とは?

俳句と川柳の違いについては、実は曖昧なところがあります。よく重要とされる違いは

  • 季語の有無
  • 切れ字の有無
  • 文語体か口語体か
  • 自然を詠むか人事を詠むか
の4点にあると言われます。

季語の有無については、皆さんもご存知のように日本語の言葉には四季を想起させるものがあり、それを575に含めるかどうかということです。自然を詠む俳句において季語は最重要視されますが、人事を詠む川柳においてはそうではありません。

切れ字の有無については、「や」「かな」「けり」のような切れ字を含むことが俳句では重要視されることを指します。これは文語体か口語体か、といった点にも繋がります。

しかしながら、これらは「手っ取り早い見分け方」でしかありません。無季俳句というものもありますし、口語俳句と呼ばれるものもあります。

もともと、俳諧連歌において発句を起源とするのが俳句、付句を起源とするのが川柳ですが、この辺りの起源について興味のある方は調べてみると面白いと思います。

実のところ、先に述べた通り現代において俳句と川柳の区別、そしてただの短詩と評価するかどうかには、信条の違いによって曖昧になっている節があります。大多数が支持するであろう区別の基準について、私は以下のように考えています。

俳句: 主に自然を詠む伝統的な表現方法を用いた575短詩
川柳: うがち、おかしみを詠む575短詩

上記に当てはまらないものは、単に575短詩と呼ばれることでしょう。

これからの俳諧

いろいろと説明しましたが、これからの時代俳句と川柳、あるいはただの短詩はさらにその境界を曖昧にしていくことでしょう。季語や口語体の馴染みが浅くなっていくことなどが理由に挙げられますし、何より「575」という形式がこれらの表現として何より強烈な印象を残すからです。

Twitterで俳句や川柳といった単語で検索すると分かりますが、特に若い層の詠む句は俳句と言って川柳を詠んでいたり、川柳と言って先の基準では川柳と呼べないものであることが少なくありません。

また、昨今では「字余り」で詠む方がとても増えています。それは、575を詠む際に7の前か後に休拍を感じてしまうというのが理由だと推測されます。

古池や .蛙飛び込む 水の音
夏草や 兵どもが. 夢の跡

上記のように、ドットを打った点で休拍を感じませんか?昔の俳人がどう感じていたかは分かりませんが、西洋音楽になじみの深くなった現代では、このような休拍をとることでビートに整合性を感じている方が多いようです。

こうなりますと、その休拍に言葉を埋めた方が心地よい、と無意識の内に感じるようになります。

古池や 蛙が飛び込む 水の音

のように詠む方が、音符の流れが自然ですね。

これは好みの話になりますが、私は字余りをもって詠むことに肯定的ではありません。そのような句を詠むこともありますが、背徳感すら感じます。日本に染み付いてきた奇数のもつ美しさを、西洋の腐れビートによって損なわれるのは風流ではないと思いませんか。

アカウントの運営ポリシー

さて、俳諧から少し離れてTwitterアカウントの運営についてのお話をします。ほぼほぼbot状態の私のアカウントですが、以下のようなポリシーをもって運営しています。

  • 一日最低一句
  • 同じ作品を投稿しない
  • 日常ツイートはつい消しする

1点目については、継続は力なりということで最低でも一句は詠もうという考えからです。

2点目については、私がそもそも同じネタを繰り返し投稿するbotが嫌いだった故にできたポリシーです。私はそのようなbotに質の低さを感じてしまうのです。

3点目については、今でも悩むことがありますね。ただ、私は自身のアカウントに「一句を詠むアカウントであって欲しい」という想いがあります。

また、日々の些細なツイートは生もので、放っておくと腐ってしまうものです。そのようなツイートを残しておく意味はあまり感じませんし、腐らない作品だけを残しておきたいとの考えでこのポリシーがあります。

芭蕉は何を詠むのか

さてさて、最後にまた俳諧の話に戻ります。

よく、私のアカウントを知る友人から
芭蕉の名前を借りてるくせに、詠んでるのは俳句じゃないよね」
と揶揄されることがあります。

その通りと言えばその通りなのですが、私もただ漫然と575短詩を作っているわけではありません。

「季語をもって四季を詠む」のではなく、私は「恥語をもって色(欲)を詠む」のです。

これは俳句とも川柳とも呼ばれないかもしれません。しかし私は、俳聖と呼ばれた松尾芭蕉のように、このような表現方法をもって俳性と呼ばれたいのです。