Anti-Trenchは音楽と言葉で人を救う

音楽の話はここでは書きたくなかった。いつも嘘や冗談ばかり書いているが、これだけは本音でしか書けないし、またオオカミ少年のように音楽のことを書いても嘘や冗談と思われるのが怖かったからだ。

でも、今回は書きたかった。書かずにはいられなかった。それくらい私の心は揺らされてしまったのだと思う。

Anti-Trenchのライブを観た

昨晩、2016年10月1日Music Bar MELODIA Tokyoで行われた企画『雨と、風と、言葉と。』に行った。かねてから気になっていたユニット、Anti-Trenchを観るためだ。


Anti-Trenchはポエトリーリーディングエレキギターという異色の二人組ユニット。詩の読み手である向坂くじらさんの言葉と、アンプに直で繋いだ熊谷勇哉のギターだけが、そこで鳴る。(熊谷は友人なので敬称がないことをお許し頂きたい)

私感ばかりになってしまう前に、Anti-Trench終演後の雰囲気を書いておこうと思う。ライブを終え御辞儀をする二人に、拍手はしばらく鳴り止まなかった。そしてそれは形式ばった拍手などではなく、二人への心からの賞賛の拍手だった。周りを見渡してみれば、目元にハンカチを当てる人や、目を赤く腫らす人、溢れる涙で頬を濡らす人が散見された。

正直に言って、異常な光景だと思う。1時間のライブを観てこれだけの人が心を打たれることがあるだろうか。その中には少なからずAnti-Trenchのファンでもなかった人がいただろうし、私もその内の一人だ。

あの光景はライブ終演後というよりも、そう、演劇を見た後の雰囲気に近かった。演劇は、そこで紡がれる物語への感情移入と、その場の空気や音や熱がもたらす共体験により感動を生む。

Anti-Trenchのライブは、それと同じ事を、観客の心に土足で踏み込むことでやってのけていた。詩で紡がれる物語はもちろんあったが、それ以上に、向坂さんが語りかけ、叫び、声を震わせて届けた一人一人への言葉が、観ている人の心を揺らしていた。夢を見させているかのような詩や、内面と深く向き合わさせる詩、そして見ず知らずの人間を、人生を肯定する詩。

参ったな、と思った。私が信じては諦め、を繰り返していた「言葉で人を救う」ということを、二人はあのステージで実現してしまったのだ。きっとそれはこれまでも、そしてこれからも実現し続けるのだと思う。

ライブにあてられた熱で書いていることは否定しないが、一度でいい。Anti-Trenchのライブを観に行ってみて欲しいのだ。

詩とギターは、異色だが、然るべきだった

そろそろ「ギターいる意味あるの?」と野暮なことを言われそうなので、熊谷のギターについて書く。

詩を伝える方法はいくつかあるだろう。すぐ思いつくものとしては

  • 一人による詩の朗読
  • 一人によるギター・ピアノ弾き語り
  • 二人による朗読とピアノ

あたりだろうか。

私の感想では、これらのいずれも、あのステージを成し得なかった。

一人による詩の朗読ではなくギターがいることによって、人はそこに景色を見ることができる。言葉だけでもそれは叶うが、音がそのイメージを膨らませていることは間違いない。輪郭を持った言葉に色付けを行っているのは熊谷のギターだった。

ならピアノでも良いか、と言うとそうとも限らない。それを見ていないから分からないところもあるが、ピアノではあまりに饒舌に歌い過ぎてしまっていたと思う。きっと、朗読に対して野暮なほどの色付けをしてしまう。それは言葉の輪郭をぼやかせる。観ている人が聴きたいと強く思っているのはやはり言葉の方で、伴奏がそれを越えては邪魔になってしまう。そういう意味で、必要最低限、そして十分な音をギターが奏でていた。

そして何より、本当に言いたいところはこちらにあるのだが、熊谷のギターがあることによって詩の読み手である向坂さんが生き生きする。ギターの音が、時に寄り添い、時に離れ、時に煽ることで向坂さん自身の心が揺れ、言葉に生々しさを増す。弾き語りとは違う、外部からの力によってしか起こりえないものだ。これができるのは二人の間にかなりの信頼関係がある証拠だろう。

だから、詩とギターという組み合わせは異色であるようで、もしかすると必然性があったのではないかと、そう思うのだ。

Anti-Trenchのこれから

他人がとやかくいう事ではないが、Anti-Trenchのこれからにはかなりの期待をしてしまう。二人のステージは多くの人が見るべきだ。とても見てほしいので見るべきだなどと強い言葉を使いたくなるほどだ。

Anti-Trenchがもっと大きくなるには難しい壁がいくつもあると思う。SNSなどが人に知られる大きなツールになっている中で、それを活用するのも難しいだろう。というのも、あのライブの熱量は、画面というフィルターを一つ通してしまっては半減してしまうからだ。加えて、あの熱量を音源に残すのもなかなか厳しいものがあると思う。

ともすれば、1ファンとなってしまった私ができることはAnti-Trenchのライブが素晴らしいのだということを口で広めるしかない。そういう思いの人が増えて行くうちに、Anti-Trenchはもっと上に行くんじゃないかと、今はそう期待している。