一句総評について

映画、音楽、文学、絵画。あらゆる芸術的な創作活動において、私は作者による作品の解説は禁忌だと考えてきた。ロラン・バルトが語った「作者の死」にあるとおり、作品は一度世に出てしまえば作者の手を離れてしまう。作者が作品について語るとき、彼はもう作者ではなく批評家、あるいは読者の一人に過ぎない。

例えば、ある画家が夕焼けを背にした幼稚園の絵を描いたとしよう。その絵を見たある人が、幼稚園が燃えている光景だ、なんて非道徳的なんだ!と腹を立ててしまった。この時、作者であった画家が「実はこの絵は…」と作品を解説することにもはや何の意味もないことをお分かり頂けるだろうか。

別の考え方もあって、作者=想像主であり作品にまつわる全ての真実は作者が握っているというものだ。それはある意味では真理とも言えるのだが、芸術作品においてそれを信じることは野暮だと思わずにいられない。受取手の想像や解釈を許さない芸術など、押し付けがましいだけじゃないか。

マキシマムザホルモンマキシマムザ亮君は歌詞カードの中で曲解説を欠かさず行っており、これはしばしば批判を浴びている。あそこまで振り切れていたらもう別に良いんじゃないかという気もするが、やはり作者による作品の解説には嫌悪感を示す人が少なくない。

表現者の一人として、この問題に私は頭を悩ませ続けてきた。俳句というものは、当然ながら多くを語らない。575、計17文字で行われる表現は、教会の壁面に小さな一輪の花を描くようなものだ。それは、ある時には読み手に無限大の想像の余地を与えることとなるが、その逆に漫然と読み飛ばされることにもなる。

二年半にも及ぶ歌詠みの中で、私は一つの限界を知った。それは、俳句とツイッターの親和性の低さである。数えきれないほどのツイートが流れるタイムラインの中で、たった17文字の一句ツイートにわざわざ目を止め、想像力を働かせるような人がどこにいるというのだろう。「おっばいを チュパチュパチュッパ チャップスだ!」みたいな勢いだけのものが人目につくことになってしまうのは、ツイッターで俳句を発信することの限界なのだ。

少し考えれば分かることであるのに、これを理解するまでに随分と長い時間をかけてしまった。昼夜問わず血眼で探し言葉の砂漠の中から拾い上げた宝石の原石を磨いて生み出した800近い数の作品達は、人の目に触れることもなくまた砂漠へと埋もれていった。

私はこれから、冒頭に述べた禁忌を犯すことにした。月次で行ってきた総評において、特に気に入っていたその月の作品を解説しようと思う。そうすることで埋もれ消えることなく誰かの胸に残り、辛い時にふと思い出して笑ってもらえるような、そんな一句が増えるのではないかと期待をしている。今日の一句を楽しみにして下さっている皆さんには、野暮なことをして大変申し訳ない。ぐだぐだと御託を並べたが、結局は作品だけで勝負し続けられなかった私の力のなさを恥じねばならないのだろう。