断捨離で捨てられたのは

断捨離を、した。

先週の日曜は夕方まで予定がなく、生活しているうちに自ずと増えたものを眺めてげんなりし、昼頃からいらないものを捨てることにした。

ものを捨てるとスッキリするという感覚を僕は昔から持ちあわせていなかった。むしろ頭の中にもやもやが残り続けて精神的に疲弊してしまう。宇宙空間みたいに生活空間が広がり続けてくれるなら、できれば何も捨てたくないくらいだ。

整理するとき捨てるか捨てないかの基準は人によって異なると思う。その基準は僕の場合、自分がそのものの存在を忘れているか否かだ。ある程度の期間そのものの存在のことを考えなかったか否か、の方がより言い当てているかもしれない。もちろん、考えなかったとしても捨ててはいけない大事な書類なんかは例外扱いになる。

最初に手をつけたのは、学生時代のノートやルーズリーフからだった。もう数年間読み返していないし、今後も読み返すことは考えられない。捨ててしまってなんの問題もないことは明白だ。しかし、先ほど述べたように大事な書類などを誤って捨てないよう、そういったものが挟まっていないか念のためにざっと目を通す。

ノートやルーズリーフには丁寧な字で書かれた板書の写しや、書き殴られた計算式や、眠さでふにゃふにゃになった英文や、得体の知れない落書きや、友人との筆談や、その他僕の記憶の奥底にかろうじてあるかないかの思い出の記録が残されていた。そして、それらが全て僕自身にまつわるものであることは疑いようもなかった。それらをビニール紐でまとめては、深いため息をついた。

ものを捨てることは、過去を捨てることにほとんど等しいと思う。人は忘れていく生き物だから、過去の全てをくまなく覚えていることは不可能だ。それが他人のことならなおさらだ。ものは、その過去を思い出すきっかけになる。人生が大長編の一冊の本だとするならば、ものはその本の中の付箋みたいなものだと思う。二度と開かれるはずのなかったページが、その付箋をきっかけに開かれる。そこには、長い物語の中のワンシーンが眠っている。ものを捨ててしまえば、付箋を外してしまえば、そのワンシーンは永遠に闇の中だ。

忘れてしまった過去に意味がないとは思わないけれど、そうやってものを、過去を捨てるとき、僕は過去の自分を否定しているような気持ちになってしまう。作り上げた砂の城を自分の手で壊すような。

次に僕は教科書や参考書を捨てた。もう二度と読まないだろうから。それぞれで先生の顔を思い出しながら。ちっとも面白くない授業をしていた先生や、酷く怒られたことのある先生や、僕のことをよく気にかけてくれていた先生や、それら全部の思い出を捨てた。

次に僕は大量の楽譜を捨てた。もう二度と弾かないだろうから。好きだった子と演奏した曲や、あるバンドを好きになったきっかけの曲や、思い切って楽譜に起こしたオリジナルの曲や、それら全部の思い出を捨てた。本当にもう二度と弾かれることはなくなってしまった。

そうやって削ぎ落としていくほどに、自分自身が消えていくような気がした。こんな風に人間は、誰の記憶からも消えていくのかと思った。

スッキリした部屋の中で、スッキリしない頭を抱えて吸う煙草は、いつもより苦い味がした。