与謝蕪村の歌を振り返る

 

 

総評というカテゴリを一億年ぶりに使います。与謝蕪村です。嘘です。松尾芭蕉です。

毎年エイプリルフールには、なにかみんなを楽しませられないかと歴史上の偉人になったふりをしたりして遊んでいます。伊能忠敬とか。そんなわけで今年は与謝蕪村を演じてみました。

恥ずかしながら、私は今日に至るまで与謝蕪村という俳人の作品をひとつも知りませんでした。せっかくなり変わるからにはその人となり、作品に触れてみたいと思い色々と調べたのですが、与謝蕪村、すごいです。私は俳句のことはよく分かりませんが、それでもじんとくるような作品がありました。

今回はそんな与謝蕪村の作品と、なり変わった私の作品を並べて振り返っていきたいと思います。

 

春の女児 終日犯し 犯し哉

元作品:春の海終日のたりのたり哉

終日は「ひねもす」と読みます。末尾の「かな」もうまく効いていますが、やはり特筆すべきは「のたりのたり」でしょう。俳句は17文字の制限があります。この中で「のたり」という言葉を、一回でも通じるにも関わらず二回繰り返すというのはとても挑戦的なことだと思います。また、与謝蕪村は画家としても才能があり、俳句の作風も非常に写実的です。思わず、春の陽気のなか、のんびりと眺める海の情景が目に浮かぶようです。

元作品と比べて贋作を見てみると、「のたりのたり」が「犯し犯し」になっていますね。元作品では、のんびりした雰囲気の強調効果を発揮していた表現が、「犯し犯し」になった途端に何度も何度も、という意味合いを持つようになりましたね。もとが「のたりのたり」ですから、なんとなく、春の浮かれた気分の女児が、薄暗い部屋でねっとり、ねっとりと終日弄ばれる情景が浮かんできませんか。

操散非処女溜息処々

元作品:柳散清水涸石処々

思わず、おいおい漢文か?と言いたくなるような作品です。やなぎちり しみずかれいし ところどころ、と読みます。ごくごく個人的な好みですが、私は単語の羅列表現大好き人間です。この歌では、清水涸石、で単語が羅列されています。助詞も含まない単語の羅列に、無限なる想像力の海を垣間見ますね。また、柳は春の季語ですが、この歌の季語は柳散で、秋の歌となります。

贋作は、みさおちり ひしょじょためいき ところどころ、と読みます。元作品が柳という春の季語を散ると合わせることで秋の季語としているように、贋作も操散という表現で「簡単にお股は開かないぞ!」と操を立てて入学した女子大生が秋には非処女となっていく寂しさをうまく表現できたと思います。

痴女モノで 四六時シコる 親父かな

元作品:鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな

これはですね、元作品が良すぎます。めちゃくちゃかっこいい。台風(野分)の中、鳥羽離宮へ五、六の騎馬が駆けていく様子がありありと見えてきます。鳥羽殿へ、がかっこいい。ずるい。

さて、贋作ですが、、、元作品からは想像もつかないほどキモい作品になりましたね。キモさ全振り。特に言いたいことはありません。

マラテンガ 女優の膣に 似たるかな

元作品:花いばら故郷の路に似たるかな

良いですねえ。花いばら、のフレーズが良いです。母音が「ああいああ」となっていて、「花」といばらの「ばら」の語感が気持ちいいです。また、これと韻を踏む下五の「似たるかな」も気持ちよく、思わず声に出して読みたくなる作品ですね。

贋作のほうは、すみません、勢いだけなのであんまり気に入ってないです。そもそもお前はAV女優の膣のナニを知っているんだ。

クリひとつ うづみ残して まん毛かな

元作品:不二ひとつうづみ残して若葉かな

これも情景がありありと浮かんでくる、素晴らしい作品ですね。あたり一面を埋め(うづみ)尽くす新緑の若葉のなかに、ただ一つ凛と佇む白雪を被った富士山の神々しさに目頭が熱くなります。

贋作の方は、デリケートゾーンを埋め尽くすまん毛のなかに、きっと勃っているのでしょう、ピンとせり上がったクリが見えてきませんか。世の中には剛毛フェチというものがあるそうですが、私には理解できません。剃ってください。

ゴム脱ぎて 中出したりぬ 二三遍

元作品:牡丹散りて打ち重なりぬ二三片

こちらも元作品が良いですね。特に、最後の「二三片」という切り方。ここまでは切れ字の「かな」が多くありましたが、このようなぶつりと切る表現も心地よい余韻が残り、散った牡丹の大きなピンクの花弁が重なっていく様が浮かびます。

贋作にはひとつギミックがあって、元作品と合わせて読むと「中出したりぬ」の「たり」や「ぬ」を完了の助動詞として「中出しちゃった❤️」みたいなニュアンスで考えてしまいそうになりますが、「たり」「ぬ」と続けて助動詞になってしまいますのでその読み方は文法的に誤りです。ではどう読めばいいかというと、「足りぬ」と読み「ぬ」を否定の意味ととらえます。すると、「中出しちゃった❤️」どころか二、三回出しても満足しない絶倫男の歌であることが見えてきますね。

ゴム無しで 出すうれしさよ 手を繋ぎ

元作品:夏河を越すうれしさよ手に草履

これはですね、もう、元作品が本当に好き。他人の俳句をこんなに好きになったの、初めてかもしれません。夏の川をですね、渡るわけです。何が良いって、下五の「手に草履」、この言葉で「裸足で川の中を歩いていること」が分かるのです。途端にあの、暑い日差しのなか足元を流れる小川の冷たさが思い出されます。無邪気な喜びを心の底から呼び覚ますような、そんな作品だと思います。

贋作はどうかというと、時と場合によっては忌むこととされる中出しが「手を繋ぎ」という言葉により、男のわがままではなく男女の合意の上で行われていることがわかるような展開に仕上がっています。

行きずりや 重たき姫の 抱き心

元作品:ゆく春や重たき琵琶の抱き心

過ぎ去る春の寂しさを、重たき琵琶の抱心と表現する。感服ですね。なんてアダルトで、ロマンチックな表現なのでしょう。与謝蕪村、天才か。

贋作はワンナイトラヴのつもりだった行きずりの女が愛されたい系メンヘラだったという、取り返しのつかない過ちを描いています。

おわりに

いかがでしたか。クソみたいな下ネタの作品たちも、元作品と比べることで奥行きが出てくるのを感じられたでしょうか。

明日からはまた松尾芭蕉として、恥語(季語)で色欲(四季)を歌っていきます。今後とも、松尾芭蕉をどうぞよろしくお願いします。

Twitter:@matsuwobaseu