【小説版】性交の架橋

    「あーあ」

思わず深く溜め息をついた。冬の雨が灰色の街の輪郭をぼやけさせて、まるで生気を吸い取られたみたいな景色。

雨は苦手だ。じめりとした空気。身体に触れる水の粒の不快感。寒い時期の雨は少し痛いくらいに冷たい。朝の予報は見事にあたったが、僕は傘を持っていない。傘を持つのも嫌いだ。荷物が増えるから。救いようがない。

下駄箱で靴に履き替えて、ぼんやりと雨を眺めていた。そのうち止むだろうか。思いきって今出ていくのが正解か。そんなことを考えていると、突然うしろから声をかけられた。

「一緒に帰ろ」

その声に胸の中が跳ね上がるのを感じる。振り返ると赤いマフラーで口元を隠す彼女がいた。高校の入学式で初めて見たときからずっと。一目惚れだった。二年生になって同じクラスになったけれど、たまに授業で会話するくらいで距離を縮められている実感はない。

そんな彼女から声をかけられただけでも思いがけないことで、だから、彼女が何を言っているのかしばらく理解できなかった。傘、忘れたんでしょ、と彼女が微笑む。耳がじんわりと赤くなっていくのを感じた。

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見慣れすぎて、いつもなら意識することもない街を眺める。灰色だった景色が嘘のように色とりどりだ。傘の上に、ぽつりぽつりと水玉が落ちる音がする。不快なはずのそれが心地良く聞こえる。ちゃちなビニール傘の下、肩を寄せて歩く彼女がいるから。

5分ほど歩いただろうか。緊張してあまり話せない自分に嫌気が差す。せっかくのチャンスなのに。彼女が一緒にいて楽しいと思えるような、なにか、なにか、

「わっ」

突然、強い風が吹いた。傘を持っていかれそうになって、慌てて両手で持ち直す。にわかに雨が激しくなり、再び強い風が吹く。ぱきぱき、と安い音を立てて骨が折れたかと思うと、あっという間にビニールがひっくり返り剥がれかけた。どこかに入ろう。そう声をかけて、彼女の手を握った。彼女は驚いた顔をして、だけど、振り払うことはなかった。視界もままならない土砂降りの雨の中を無我夢中で走った。

慌てて駆け込んだ建物の中で、彼女と目を合わせた。びしょびしょになった肩。髪先から落ちるしずく。壊れた傘。妖しく光るタッチパネル。妙によそよそしいBGM。

 

 

「ラブホテル…?」

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とにかく身体を温めないと風邪をひく、と言い一番安い部屋を指定して彼女を連れ込んだ。十八歳未満はダメって書いてあるよ、と不安そうに言う彼女に、シャワー借りるだけなら大丈夫だよ、なんて。なにも知らないくせに。

初めてのその空間に緊張していたけれど、意外と綺麗な部屋に思わずわくわくしてしまった。動かないスロットマシーンを彼女はかちゃかちゃと動かして、壊れているのかなあと呟いた。先にシャワー浴びていいよと声をかけると、うん、と返して彼女はシャワールームへ向かった。彼女がシャワーを浴びている間、どうにも落ち着かず、部屋中をくまなく調べた。デリバリーヘルスの広告や、ベッド脇に添えられたコンドーム、ビニールを被せられた電気マッサージ機。目に映った「そういうもの」を片っ端から隠した。なんとなく、そうしないといけない気がした。

上がった彼女はバスローブを着ていたようだったが、あまり見てしまわないようにすぐにシャワールームへ向かった。服を脱いで、扉を開ける。ふわりと、シャンプーかリンスか、甘い香りが鼻腔を通る。長い髪が鏡のふちに張り付いている。いましがた、ここで彼女もシャワーを浴びていたという事実が、何か、心の中の得体の知れない感情を刺激した。

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シャワーを済ませてバスタオルで身体を拭い、そのまま腰に巻いて部屋に出た。そして初めて、風呂上がりの彼女を、見た。

バスローブと溶け合うような純白の肌。半分しか隠れていない太もも、すらりと伸びる足、小さな爪。ドライヤーになびく、まだ少し濡れた妖艶に光る黒い髪。頬からうなじにかけての暗影。柔らかそうな衣服にまとわれた控えめな胸の辺りの丘陵。何かが、ふつりと切れてしまった。彼女は気がつくとドライヤーを切って振り返った。目が合うよりも早く、バスタオルが落ちた。大きな傘が、少し濡れた傘が姿を現して。ふぁさり。ぼろん。

「一緒になろう」

考えるより先に出た言葉。彼女は驚いて横に目を逸らした。何かを言おうとして口を開け、閉じ、ぷっくりと赤い頰を膨らませる。そして、泣き出した。声を出すでもなく、綺麗な瞳から、涙をこぼした。まるで潮が引くように傘は萎んだ。冷静になって、冷や汗が溢れ出る。慌ててバスタオルを巻き直していると、震えた声で、彼女がぽつり、ぽつりと、降りはじめの雨のようにつぶやいた。

 

 

「君のこと、ずっと、好きだったのにな」

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隣を歩く彼女は、割り勘でいい、と部屋を出るときに1,000円を渡してくれたのを最後に、ずっと俯いてスマホを見ている。かける言葉もなく同じようにスマホを見ながら無言で歩いた。有名芸能人が未成年に淫交した話題がSNSを騒がせていた。なんだか嫌な気持ちになって閉じ、ふと、空を見上げた。

雨は、いつの間にか止んでいた。そんなことも忘れていた。呆れるくらいの綺麗な虹が、空に大きな左曲がりの弧を描いていた。

「あーあ」

思わず深く溜め息をついた。ワンコのように無邪気に振った棒で、二年間の恋を、両想いだったそれを、棒に振ってしまったのだ。

あんな風に綺麗な虹色だったなら。君も喜んでくれただろうか。そんな馬鹿なことを考えながら、苦笑いした。俯いて歩く彼女には、虹のことは話さなかった。

 

もう、迷わずに進めばいい。性交の架橋は見えている。

 

 

 

 

僕はポケットに突っ込んだデリバリーヘルスの広告を強く、強く握りしめた。

 

 

 

性交の架橋 / くゆ太子 - ニコニコ動画