拭えないコンプレックス

朝に記事を書くのは初めてです。たぶん。マツオです。うららかな日差しの中で、朝の少しだけひんやりとした空気の中で、ここ最近いろいろ思うところがあり自身のコンプレックスに向きあってみたいと思います。朝なのでロリコンとかの話ではないです。残念でした。

私は昔から、努力ができる人にコンプレックスを持っていました。たとえ彼らが、彼女らがどんなに不器用でその努力を成果に変えられなかったとして。私はそれが羨ましかったのです。

悔しさにせよ、達成感にせよ、それを得ることができるのは努力できる人間の特権です。努力できる人間にしか与えられないのです。

努力できなかった私は、生きていく中で、大きな達成感に喜ぶこともなければ、悔しさに泣くこともまずありませんでした。失敗をしても、それはないがしろにやっていたことだから仕方のないこと。成功をしても、自身の努力で得たわけではなくラッキーなこと。

友人が晴れ舞台で成果を残し仲間と抱き合って泣き笑っているとき。影ながら努力を続けてきた友人がたった一度の失敗で夢を失い絶望に暮れているとき。おかしなことに、私はその二つどちらも等しく羨望の念で見ていました。

努力できるか、にはいくつかの要因があると思います。それは他人からの評価かもしれないし、自身の尊厳のためかもしれない。いずれにせよ、自らの行いを律することができる人だけが努力できます。

なぜ自分は頑張れないのだろう、と子供の頃からよく考えてきました。

夏休みの宿題
学校のテスト
朝の登校
ピアノの発表会
部活の練習
受験勉強
就職活動

何も私は頑張れなかったのです。もちろん成果を出すこともありましたが、それは身の回りにいた素敵な人たちの支え合ってでした。そんな風に度々、自分だけではなく他人に迷惑をかけてきました。次こそは、次こそはと同じことを繰り返して、人の気持ちも鑑みずにヘラヘラと笑っていました。結局、努力できない理由は分からずじまいで、分かっていればこんな記事も書いていないでしょう。

私がぼんやりと抱えていた死にたいという感情を、しっかりと意識するようになったのは中学1, 2年の頃だったかなと思います。きっかけがあったわけではなく、これまで書いてきたようなことがつもりにつもってカビついた劣等感、コンプレックスが拭えなくなってしまったからでしょう。そんな私が今でものうのうと生きているのは、生きることすら頑張れていないからです。死にたいと思えるほどの苦しさも、生きたいと思えるほどの喜びも、努力なき人生にはあまりに下らないちっぽけな感情でした。死ぬことすら意味のない人生でした。

私を知る友人がこれを読んだら失望するでしょうか。あなたは努力している、といった慰めや、とりあえず頑張ってみろよ、といった励ましは欲していません。これは自分が自分であるために向き合わなければならないコンプレックスで、それと向き合って生きていく術は自分で考えなければならないことでしょう。

ぐったりするような話を書いたので、最後に楽しいコンプレックスを書いておきます。実は私、第3の乳首があります。ここ最近その第3が少しずつ分裂を始めています。なかなか4つの乳首を持っている人っていないよなあと思います。

コンプレックスとアイデンティティって、紙一重ですよね。