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はじめての キスは煙草の 味がした

終電を逃してしまったな、と0時35分の腕時計を見て思った。文字盤の小さな、いかにも女の子らしいこの腕時計をくれたのは父さんだった。

高校生のくせに最終電車を逃すなんて不良だと思われるかもしれない。友達とバカ騒ぎをして時間も忘れて帰れなくなって。しょうがないから朝までまた遊んで。

私に限って、そんなことはあるはずもなかった。薄暗い公園のベンチに一人座って草陰の猫に目を向ける。近いような遠いような駅前の明かりがぼんやりとここを照らしていて、猫は眠たそうに目を細めていた。

どうしてこんなところにいるんだろう、と思う。今日も朝から学校へ行って、授業を受けて、一人でお昼を食べて、一人で放課後の図書館にこもって。帰りたい場所もなければ行きたい場所もなくて。ただふらふらと何を考えるでもなく、気付けばこの公園にいて、こんな時間だった。

どうしてこんなところにいるんだろう、と思う。明日は学校を休むとして、誰かが私を思い出すだろうか。このまま夜の街に消えて二度と戻らなかったとして、誰かが私を探すだろうか。

ざざ、と音を立てて猫が逃げ出したのでその反対側へ顔を向けると、煙草を吸うサラリーマンがいた。何をしていた訳でもないのに、いけないことを見られたような気がして私は慌てて立ち上がった。

「君、家近いの?」

目を合わせないように立ち去ろうとした私に彼が声をかける。逃げたい衝動を抑えながら、呼吸を整えた。

「はい。眠れなくって、外の空気を吸いに。もう帰ります」

彼は煙草を携帯灰皿に押し込むと、ゆっくりと煙を吐き出して苦笑いした。

「人を騙すなら、もっと器用に嘘をつかないとね」

近づく彼に思わず後ずさる。くたびれたネクタイ。細身のスーツ。年齢は定かではないが、20代後半といったところか。

「眠ろうとしている学生が、こんな時間まで制服は着ないだろう。終電を逃したのかい?」
「…そうですね」

あっさりと嘘を見抜かれて、なんだかどうでもよくなってしまった。彼が首を絞めて私を殺してくれる悪魔だったら、今は、後悔もなくこの世を去れそうだった。

「家は」

彼の意図が分からず困惑していると、徐ろに後ろのポッケから黒革の財布を取り出して、一枚、二枚とお札を抜いていった。

「はい」
「なんですか」
「駅からタクシーが出てる」

ようやく彼が何を考えているのかが分かって、また一歩後ずさった。

「受け取れません」

仕事帰りの疲れたサラリーマンが、何が悲しくて一人終電を逃した惨めな高校生を手助けする必要があるのだろうか。自業自得なのだ。私の人生そのものが。

「関わってしまったからには放っておけない」
「でも、」

また苦笑いをする彼を見て、ああ、父さんはこんな風に笑う人だったかもしれない、と思った。

「そんな大金、受け取ることできません」
「遠慮してる?」

彼はおかしそうに目を細める。少しの間、夜空を見上げてから彼は言った。

「受け取るのに理由がいるなら、そうだな。キスさせて」

思いがけない言葉に、私は猫のように目をまん丸くしていたと思う。

「えっと、」
「僕は君を知らぬふりして帰れないし、君がこれを受け取るのに理由がいるなら。そうでないなら受け取って」

私もなんだか笑えてきて、それから目をつむった。

「キス、して下さい」

少し、時間があって、彼の唇が触れて。煙草を吸っていた彼の味がほのかにして、離れて。私の手を取ると、彼はお金を握らせた。

「気を付けて帰るんだよ」

呆気なく手を振ってその場を去る彼を見送ってしばらく。私も駅の方へとタクシーを捕まえに歩き出した。


安全運転をするタクシーに身を任せて、窓に頭をもたれて夜の街を眺める。星の見えない夜空。明かりの消えないオフィス。

彼のキスは、死んだ父さんとしたはじめてのキスと同じ味がして、そんなことを思い出しながら、私はまた目をつむった。