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空が青過ぎると

SS

私の日々のささやかな楽しみは、昼休みに会社近くの喫煙所へ行くことだ。同期の誘いを断って今日も喫煙所へ向かう。

腕時計を見て確かめる。てっぺんを差す短針と、底を差す長針。よし、と一息吐いて私は会社を出た。

からりとした冷たい風がコートの内側まで入り込んで、肩をすぼめて歩く。師走に奔走する疲れた顔のサラリーマンや食事を取る以外の楽しみを失ったもう若いとは言えない女がすれ違う。

喫煙所に着いて、寒さで強張った私の頰は緩んだ。灰皿の周りの集団から二、三歩離れたところで煙草の煙を吐く男性。目にかかった髪、緩めたネクタイ、清潔感を失っていないスーツ。彼は今日も、どこを見るとでもなく空を見上げていた。

私は彼を何も知らない。知っているのは毎日12時40分頃この喫煙所にいるということだけだ。他の時間に喫煙所に来ても一度も会えたことがない。そして、きっと彼は私を何も知らない。毎日12時40分頃に、自分のことを見るためだけにわざわざ遠い喫煙所まで足を運ぶ女のことを。

知りたいと、知りたくないの間で私は揺れていた。彼はどこに勤めているのだろう。名前を何というのだろう。彼はいつも。いつも何を見上げているのだろう。幾度か彼の目線を追って空を見上げたが、目に映るのは青い空と、雲と、ビルの群れだけだった。

年末の忙しさは私にも訪れて、土曜日に出勤することになった。世間がクリスマスに浮かれていても特に不満はなかった。仕事は好きだ。自分が自分であることを忘れられるから。

いつもの癖で、私は12時40分に喫煙所へ向かった。期待をしていなかったから、彼がいることにまず驚いた。いつもと変わらない場所でいつもと同じように空を見上げていた。いつもと違って、喫煙所にいるのは私と彼だけだった。

何が私の背中を押したのか分からない。きっと、知りたいと知りたくないの間で揺れていた振り子が、ちょっとしたことをきっかけに傾いてしまったのだ。

「すみません、ライター貸して頂けますか」

彼が恐る恐る嘘をつく私に気づくのに数秒かかった。目を何度か瞬いてからスーツのポケットに手を入れる。

「ああ、どうぞ」
「ありがとうございます」

彼を知るまたとないチャンスに頭の中でいくつもの質問が駆け巡った。どんな質問も、彼は望んでいないように思えた。

「何を見上げているんですか」

あまりにも唐突な質問が、溢れかえりそうな水槽から溢れた。掬い上げられなくても仕方のないようなものだった。

「…空」
「それは、分かります」

覚悟はしていたが、あまりにもそっけない彼の答えに心が折れそうになる。でも、ここまで踏み込んだからには後に引けない。

「いつもここで空を見上げてますよね」
「そうだね」
「何か、あるんですか」
「何も。冬の空」

乾いた会話でいよいよ萎れかかった花弁に、彼は一言だけ付け足した。

「空が青過ぎると、死にたくなるらしい」

笑ったのかそうでないのか判別が付かないような曖昧な表情を残して彼は喫煙所から去ってしまった。一人残された喫煙所で、私は空を見上げた。雲一つない冬の空はどこまでも青くて、深くて、透き通って、遠かった。

あの日以来、彼を喫煙所で見ることはなかった。結局私は彼の勤め先も名前も知らないままだった。彼が立っていた場所から、私は今日も空を見上げている。何もない青空に、何かを探していた。