ありとあらゆる期待が僕達を不幸せにする
人はどうして不幸せになるのでしょうか。生きていることそれ自体が幸せだとか、友人がいれば幸せだとか、そういった話もありますね。その逆であれば不幸せということでしょうか。
幸せの定義についての議論はとても難しいので、ここでは話を進めるためにそういった議論なしにシンプルな意味で定義させてください。
幸せ: 快楽、満足を享受している状態
不幸せ: 苦痛、不満足に晒されている状態
上記の定義の上で、私は心の内の、ありとあらゆる期待が不幸せを連れてくると考えています。
その説明の前に断っておきたいことは、この考え方が決して幸せになるためのものではないということです。あくまで不幸せにならないための考え方となります。
今が辛い方、なんとなく不満足を抱えている方、虚しさに飲み込まれている方の、そこから抜け出すヒントの一つになればいいなと思います。
他人に期待することをやめる
これは比較的簡単に実践できることです。私が書いた先の文章を見てみましょう。
今が辛い方、なんとなく不満足を抱えている方、虚しさに飲み込まれている方の、そこから抜け出すヒントの一つになればいいなと思います。
これが他人への期待です。自身が書きたいことを書いて満足すればいいものを、他者に何かしらのアクションを望んでしまっています。
他人に期待すること、しないこと。どのような違いが生まれてくるかを説明しましょう。
相手が望むアクションを起こさなかったとき
あなたが、自分の行為に対して相手に見返りを求めていたとき、つまり相手に期待を寄せていたとき。相手が望むアクションを起こさなければ、あなたは不満足に思うことでしょう。
手助けをしたのだから、感謝されたい。
努力をしたのだから、評価されたい。
そういう願望が満たされないとき、人は不幸せを感じるのです。
あなたが、他人への期待をしていないとき。つまり、
相手を想って手助けをした。
自分のために努力をした。
といった風に考えるとき、不満足に晒されることはありません。相手に期待することがなければ、相手の行動などどうでもいいものとなります。そしてそれは、自分が不幸せにならないための防衛手段となります。
相手が望むアクションを起こしたとき
逆に、相手がこちらにとって喜ばしいと感じられる行動を取ったなら。あなたが相手に対してそれを望んでいたとき、満足を得ることが多いでしょう。しかしながら人間とは欲深く、一度何かを求め始めると「更に多くを」と求めます。
私は彼が好きだ。彼も私を好きだ。でももっと彼に愛されたい。
こうしていつの間にやら不満足が生まれていきます。欲することをやめない限り、人間は満たされることがありません。
私は彼が好きだ。どうやら彼も私を好きなようだ。
他人に期待することをやめれば、他人の行為は自分の行為に付随してもたらされる喜ばしい事象の一つに過ぎないのです。
自分に期待することをやめる
より不幸せを減らすためにはこれを実践しなければなりません。ですが、これはなかなかに難しいものとなります。
自分はこうありたい。夢を叶えたい。
そういう期待が、現実とのギャップを形成し不満足を生みます。他人への期待同様、これを望まないことによって不幸せは軽減することができます。
一点注意があるのですが、自分に期待することをやめるというのは傍若無人に振る舞うための口実に使ってはなりません。
自分はどうせダメな人間なのだから、他人に迷惑をかけても構わない。
このような考え方は、実のところ開き直ることによって無意識のうちに自身に苦痛を与えています。こういう意識を持っている人間が自身の評価を貶めることによって不満足に晒されていることは容易に想像がつきますね。
最後に
不幸せは、何かに期待することでもたらされます。不幸せになりたくないのであれば、期待することをやめるしかありません。
この考え方を突き詰めていくと、感情を失うことが、不幸せを遠ざける最良の手段となることが分かります。
始めに断ったとおり、これは幸せになるための方法ではありません。むしろ、幸せすらも遠ざけることでしょう。
幸せを望む者には不幸せも与えられます。それらを放棄することで、無の境地に至ることができるのです。
長々と書いたこの記事ですが、読んだ方がこれを実践することを私は期待しません。ただ、私の思想を、哲学を、書きたいから書いた。それだけのことなのです。