静岡

ここのところ、ラジオばかりに精を出していたり、オナホばかりに精を出していたので何かブログらしいことでも書こうと思い筆を取った。のだが、何か特筆すべき出来事もなければ、やっぱり沢野美香さんは可愛いなとか、他が隠れている故に冬服の女子高生の太ももは最高だな、なんてことを考えてばかりいる。

ブログらしいことと言えば、10月から住まいを変えて静岡で暮らしている。初めは慣れなかったが、霧ばかりかかって視界の悪い街にも、死んだはずの妻から手紙が届くのにも随分と身体が馴染んできた。所構わず現れ奇声を発する化け物は相変わらず好きになれないが、金属バットを持ち歩いていればなんとかなるものだ。

死に別れた妻によく似た女性と街を歩くのが日々の楽しみになりつつある。廃病院や朽ち果てて古びた紙の香りがする図書館の暗闇を歩いていると、あの頃の、幸せだと胸を張って言えた日々に戻れたかのような気持ちになれる。

人の記憶とは不思議なもので、あれだけ愛していた妻も、失くして数年と経つとその姿形が次第に思い出せなくなっていく。それなのに、彼女の影だけは日ごとに増して濃くなるのだ。その影は私の心を少しずつ、少しずつ食い潰して空っぽばかりが大きくなっていく。

私は今、君が好きだった静岡にいる。「ついに気が狂ったか」。そんな言葉を残して知人はみんな離れて行ってしまった。狂っているのは奴らの方だった。最後に会った高校の頃の友人は頰に目があって、胸骨の上あたりの空洞で息をしていた。もう会うのは勘弁だ。

悲しいことばかりではない。私は妻を亡くして、自由を知った。自由とは、つまり、他人を諦めることだったのだと思う。それは、自意識の暴走を、自尊心の妄言を許してあげることだったのだ。

ああ、静岡。三角頭はこの街にいる。私は殺されるかもしれない。だけれども、私は自由だ。