まつをのラジオ:夢について

「こんばんは、第三回放送、まつをのラジオパーソナリティーのまつをです!」
「ま〜いまい♪ま〜いまい♪おさーるさーんだよ〜♪」
「今日も元気モリモリ、高森浩二!」
すき家だね〜」
「というわけで今日はすき家からお届けしてます」
「飽きないの?」
「正直に話すと、そろそろコンビニのパン・弁当、コーンフレーク、すき家以外のものが食べたいですね」
「まいまいが作ってあげるよー☆」
「料理できるんですか?」
ねるねるねるね♪」
「…はい。というわけで今日のテーマは『夢について』!」
「まいまいの夢はパパのお嫁さんだよー☆」
「今日のテーマはですねー、寝ているときの夢についてなんです」
「あら〜」
「まいまいは夢見ますか?」
「あんまり見ないかな!起きたら全部忘れちゃうよ」
「そういう方も多いですよね。僕、すごくたくさん夢を見るんです。それに起きてもわりと覚えてる」
「どんな夢見るのー?」
「サークルの友達と旅行に行ったり、部活の後輩に楽器を教えたり、初恋の人と下校したり、家族で夕ご飯を囲んだり、」
「待って待ってそれ思い出話ぢゃなくて?!」
「違うんですよこれが。夢なんです」
「日常よりもリア充してない…?」
「そうなんです。僕、日々の生活より夢の中の方が充実してるんです。普段から人より多く、例えば18時間とか寝るんですが、それを話すともったいないって言われるんですよね」
「もったいない…」
「でも、起きてる間より寝てる間の方が楽しいですし、夢の方が大事で。起きてる間のことは割とどうでもいいんです」
「それじゃもうどっちが現実かわかんないね」
「まさに!今起きてるこの時間の方がむしろ夢なんじゃない?ってよく思います」
「なんか暗い気分になるから手紙読もーよ☆んーとねえ、千葉県のふしだらなぐでたまさんから!『彼氏にフラれる夢を見ました。これって正夢ですか?』」
「正夢ですね」
「こら!」
「いや、冗談ですけど、冗談じゃないですよ」
「むむ〜!」
「フラれる夢を見るってことは、ぐでたまさんの中に『彼氏にフラれるかもしれない』という不安があるからです。そういう不安を感じるような何かが、彼氏との間にあるんじゃないですか」
「んんん、そうなのかも…」
予知夢だと思って、そうならないよう努めた方がいいと思います。まずはその不安がどこから湧いたものなのかの究明ですね」
「まだ間に合うよ!大丈夫!元気出して!」
「それでもダメだったら僕と付き合いましょう」
「こら!」
「お、もう一通来てますよ。栃木県在住、まいまいのパパさんから、」
「パパ!」
「…『死んだ娘と夢でも会いたい。どうしたらいいだろうか』」
「も〜パパったら///」
「コメント控えさせて頂きますね!」
「パパの手紙は大事に取ってるよー☆」
「さて、今週はこの辺りにして…来週のテーマは『studio mol初のアルバム?!』です!」
「うわっ!宣伝だ!」
「しーっ!それでは芭蕉さん、いつものお願いします!」
「夢に見た 幼女の胸に 夢精した」
「お!ボイン合わせですね!」
「ばいんばい〜ん♪」
「それではまた来週!」
「また一週間元気に乗り切ろうねー☆」

まつをのラジオ:男女の友情

「こんばんは、みなさまお待たせしました!」
「誰も待ってないよー☆」
「まつをのラジオ、JKの香りは命の泉、パーソナリティのまつをです!」
「ポン・デ・まいまいだよー♪」
「そう!前回放送で非難轟々だった自室を離れ、今日は近所のミスタードーナッツからお届けしてます!」
「してます!」
「リスナーの皆さんにもぜひお見せしたいんですが、今日のまいまいはポン・デ・リングをあしらった帽子を被ってるんです。妄想の産物ながらなかなか可愛くって」
「ぽぽぽぽ〜ん♪」
「さて、今日のテーマは『男女の友情』です!実は僕、こう見えて結構異性のお友達が多いんですよ」
「嘘つけ☆」
「ほんとですよ!一緒に買い物したり、お食事したり、悩みを相談したり」
「みんな優しいねー」
「その優しさにつけ込んで一発ヤれないかと虎視眈々とちんちんをパンパンにしてるんですけどね」
「死ねばいいと思う☆」
「それは冗談として、まいまいはヤレボってご存知ですか?」
「『やれやれぼうや、おなかが減ったのかい?』みたいな!」
「違いますねー。ヤレボとは『ヤれるボーダーライン』の略で、ヤれと言われたらこの人とヤれるかヤれないか、という指標のことなんです」
「ええぇ…」
「女性は知らない方も多いみたいですね。男性は女性を見るとき意識的に、あるいは無意識に自身のヤレボを越えているかを評価してます」
「『好き』とは違うの?」
「これが違うんですよ。恋愛感情とは全く別ベクトルで、ヤレボが評価されるんです。この辺りが女性の感覚とズレがありますよね」
「そうだねー。女の子のそういう感情は恋愛と強く結び付いてることが多いんじゃないかなあ。行為は苦手でも好きな人とはしたい、とか、好きな人にしか身体は許せない、とか」
「まいまいはどうです?」
「パパなら身体も許せるよ☆」
「…」
「んー?」
「妄想してたらパンパンがちんちんしてきました」
「うわぁ…」
「こういう感覚の違いが『男女の友情』を複雑にしてると思うんです」
「どうしたらいいのかなー」
「そ!こ!で!セフレですよ、セフレ」
「そんなブログ書いてたね…でも、それは女の子の負担が大きいよ。だって好きじゃない人とはしたくないもん。仲良しでも」
「確かに。女性においしい思いがなければ支え合える友達とは言えませんね…」
「そうそう!」
「んん、ここでお便りが届きました!東京都在住、紺野真琴さんから『ずっと友達だと思っていた男の子に告白されました。もうどうしたらいいか分かりません』」
「もしかして…!」
「これは…!」
「「未来で待ってる」」
「僕、思うんですよ。友達に対して付き合いたいという気持ちが少しでもあるなら付き合えばいいんじゃないかって。それでうまくいかなかったらまた友達に戻ればいいわけで。それに、付き合いたい気持ちがないなら振ればいい」
「ふむふむ」
「そんなことで関係がギクシャクするなら、その程度の友達ということですよ。だから僕は、真琴さんにも怖がらずに自分の気持ちと向き合ってほしいなって。きっと千昭さんもそれを受け入れてくれるから」
「まいまいは功介さんが好き!」
「僕は美雪ちゃんを犯したいですね」
「お金かなー♪」
「ん?」
「身体を許すなら、お金が欲しいかな♡」
「男女の友情を成り立たせるのは援交ということですね?!」
「ぽぽぽぽ〜ん♪」
「支離滅裂になってきたのでそろそろ締めましょう!次回のテーマは『夢について』です!お便りお待ちしてます!」
「ちゅんちゅん☆」
「それでは芭蕉さん、『今日の一句』お願いします!」
「仲良しの 女性に生で 中出しを」
「ありがとうございます!それではまた来週!」
「みる!みる!みるもでポン♪」

まつをのラジオ:死んだ後の世界

「こんばんは〜!いよいよ始まりました、まつをのラジオ!わたくしパーソナリティのまつをです!」
「まいまいだよー☆」
「始まりましたねえ!始まってみてどうですかまいまい」
「んー、スタジオが汚い!かび臭い!」
「僕の自室ですからね!」
「よくこんなところに暮らせるね…」
「住めば都ですよー。まいまいのお部屋はどんなです?」
「まいまいのお部屋はねー、壁と天井一面にパパの写真が貼ってあるよ!」
「うわぁ…」
「パパ…好き…」
「さてさて、まつをのラジオは毎週土曜の夜10時から、皆さんの悩みや気になること、今話題のあんなことやこんなことを紹介する番組です」
「ひゃっ!」
「どうしました?」
「今、黒い影がひゅって…」
「あはははは。それでは始めましょう。今日のテーマは『死んだ後の世界』!さっそく重いですね!」
「天国かなー☆」
「死んだ後の世界は誰も見たことが無いですし、宇宙や深海と違って絶対に帰ってこれませんから気になりますよね。僕はね、『無』だと思いますよ」
「むむむ?」
「寝てる時って、夢でも見ていなければ何も無いでしょう?寝て起きると、まるで時間が飛んだみたいな。あの何も無い状態が続く、そしてそれを僕たちは意識できない」
「難しくて分かんない☆」
「まいまいは天国があると思いますか?」
「あるんじゃないかなあ。まいまいは死なないけどね!」
「肉体持ってないですもんね」
「まいまいは概念☆」
「でもこの間交通事故で死んじゃいましたよね?パパが『愛する真衣子へ』って手紙書いてましたけど」
「まいまいは死んだから自由になれたんだよー♪身体を失くして、空間と時間から解放されて、ずっとパパと一緒にいるの☆」
「あー、それってもしかしたら、もう死後の世界なのかもしれませんね」
「んー?」
「お、さっそくお便りが来ましたね!栃木県在住のまいまいのパパさんから!」
「パパ!」
「どれどれ…『真衣子、会いたい』だそうです!」
「まいまいも会いたいよ、パパ」
「関係ないお便りはご遠慮願いたいですねえ。次は…涅槃在住、観音様さんからのお便りです。ありがたいお話が聞けそうですね!」
「かんのんっ!」
「さて…『死後の世界で人は救われます。生きた時間の全てが、そこでは肯定されるのです』。あああ、ありがたい…」
「観音様もここに呼ぼうよー☆」
「それはちょっと…でも、なんだかひとつの正解を頂いた気がしますね。死を知ることができない僕たちは、今を生きるしかないですし、それはきっと死んだ後も否定されるものではないのかなって」
「精一杯生きなきゃね♪」
「さて、今日はこの辺りでお開きにしましょうか。次回のテーマは『男女の友情』です!お便り待ってます!」
「待ってます!」
「それでは最後に芭蕉のコーナー『今日の一句』で締めて頂きましょう!芭蕉さんどうぞ!」
「人はみな 母の子宮に 還りゆく」
「ありがとうございます!それではまた来週!」
「また聞きに来てねー☆」

今を生きる君へ

「女ってほんと金がかかるよな。デート代とかプレゼントとかさ。無駄金もいいところだよ。もっと自分のために使えば良かったわ」

そう言って悪態を吐く友人を見て、僕はとても悲しくなってしまった。友人は昨晩、二年半連れ添った彼女と別れた。彼女は浮気をしていたそうだ。

悲しかったのは、彼が浮気をされていたからではない。別れた彼女に悪態を吐いていたからではない。

彼が、過去の自分を否定してしまったからだ。

デート代は自分持ちだったと彼は言う。そして、勿体無いことをしたと加える。プレゼントにたくさんお金と時間をかけたと言う。そして、無駄なことをしたと加える。

励ましながら、頷きながら、僕は思い出していた。あの日、君はそれを無駄だなんて思っていなかった。

先週仙台まで遊びに行ったんだ。
二周年記念で指輪を渡そうかな。

そう話す君は、とても楽しそうだったじゃないか。君は、大好きな人と過ごす時間にその対価を支払うことを厭わなかった。彼女と遊びたいと思い、自分が多く負担することを甘んじて受け入れていたはずだ。否、進んでそうしていたのでは。プレゼントにしたってそうだ。彼女を想う気持ちを形にしたかったのだろう。

結果だけを見つめて、彼は過去の自分自身の気持ちを否定してしまった。続けて彼は話した。

「もう一人でいいや。自由だし、楽だしな」

諦観を語る彼の顔は、笑顔の中に苦々しさを携えていた。彼は今回の苦い経験を、数学的帰納法を用いて未来にまで適用してしまっていた。彼が自由を求めているようには到底思えなかった。ただ、未来に期待することに、未来の自分自身に否定されることに怯えているように見えた。

残念ながら、未来は僕らの手の中になどない。人生は自分だけが描けるキャンパスではない。それはいつだって他者によって、外力によって形を変えてしまうものだ。

僕には結婚を考えた女性が二人いた。そのうちの一人は五年間付き合った。好きだった。婚約をした。籍を入れる前日に、僕の前から消えた。あなたを心から好きと思えたことは一度もなかった。置き手紙にはそう書いてあった。

結果だけ見れば、確かに僕は惨めかもしれない。だが、あの時の自分は、あの時の精一杯を生きていた。どんな結末が待っているかも知らずに、彼女を愛していた。

そして、僕は、幸せだった。

正直に話せば、彼女とのバッドエンドは僕を絶望させた。何も信じられなくなった。全てが虚しくなった。

それなのに僕は、自分が幸せだったことだけは、どうしても否定できなかった。だって、僕は幸せだったのだ。過去の自分の思いを、今の自分の勝手で改竄することはできなかった。

結婚を考えたもう一人の女性を、僕は同じように愛した。過去の暗い思い出は未来の景色を歪め僕を臆病にさせたが、その人を想う気持ちは本当だった。先月、僕は彼女と結婚した。

幸福なことに、未来は僕らの手の中になどない。人生は自分だけが描けるキャンパスではない。それはいつだって他者によって、外力によって形を変えてしまうものだ。

だから僕たちは、自分自身を生きるしかないのだ。

親友の口癖をよく思い出す。

「過去の自分を否定するな。未来の自分に怯えるな。今の自分を生きろ」

魅力的な人だった。尊敬していた。18歳のとき交通事故で死んだ。あまりにも儚く、美しい人生だった。

僕は親友よりもずっと迷いながら生きている。腐ることもよくある。そんな僕の言葉は響かないかもしれないが、君に伝えたい。

愛した人に裏切られた君へ。
今を生きる君へ。

過去の自分を否定するな。
未来の自分に怯えるな。

今の自分を生きろ。

僕は僕を許せなくて、それは僕が僕になった時からずっとのことで、僕は僕が嫌になって違う人間になりすましたり僕じゃない誰かになろうとしたけれど、どうしたって僕は僕でしかなくて、僕を許せない僕を否定する僕も僕で、もうどうしたらいいのかも分からなくなって誰かに僕を許して欲しくなって、優しい人が、心ある人が時に僕を許してくれて、それでも僕は僕を許せなくて、結局はその人さえも否定してしまう。

僕が僕でなくなる方法は、考えても考えても見つからず、僕を否定するための自傷行為をするのも僕で、僕を殺す僕も僕で、そうやってついには命を捨てたところで誰かの中の記憶に残る僕は僕であり続けてしまうという逃げ道のない絶望だけが僕を取り囲んでいる。

それでも絶えた僕はいつしか誰からも忘れられて、ようやく僕が消えることで僕は僕から解放されて無になれるのだと、それだけが救いなのかもしれないと考えていたりもする。

本当は、本音では、僕は僕を許せるようになりたくて、だから死を迎え入れられないのだろうかとか、僕はどうして僕なのだろうかとか、ぐるぐる考えているうちにここまで生きて、未だに僕は僕のままだ。

そんな僕を、僕はまだ許せない。

あああああ

あああああしぬ、しぬ、ころされる、のか?肉体がが精神が張り裂けてこぼれる、あふれる、痛い痛い痛い痛い痛い痛い離してくれ、放して、痛い!身体が縛り付けていた汚水が溢れ出す感触や、たましいか、もつと醜い何かが、広がって部屋に溜まってしまっては溺れてしまうのかと、こらえてこらえているふちに脆くなっていた腕の付け根や、へその穴から、目の隙間から放してくれと、精神が、こぼれてしまっているのかと、目に見えないから止まらないということか!あるいは閉じ込めた部屋を戸をがんがんがんと叩き続ける誰かかの中にいたのでは!怖い、怖い、誰がが見てるぞ、遠くから近くから木陰から誰かが、だれだ、!あああまただ、裂ける、裂けてちぎれる、ちぎれてしまう、

Anti-Trenchは音楽と言葉で人を救う

音楽の話はここでは書きたくなかった。いつも嘘や冗談ばかり書いているが、これだけは本音でしか書けないし、またオオカミ少年のように音楽のことを書いても嘘や冗談と思われるのが怖かったからだ。

でも、今回は書きたかった。書かずにはいられなかった。それくらい私の心は揺らされてしまったのだと思う。

Anti-Trenchのライブを観た

昨晩、2016年10月1日Music Bar MELODIA Tokyoで行われた企画『雨と、風と、言葉と。』に行った。かねてから気になっていたユニット、Anti-Trenchを観るためだ。


Anti-Trenchはポエトリーリーディングエレキギターという異色の二人組ユニット。詩の読み手である向坂くじらさんの言葉と、アンプに直で繋いだ熊谷勇哉のギターだけが、そこで鳴る。(熊谷は友人なので敬称がないことをお許し頂きたい)

私感ばかりになってしまう前に、Anti-Trench終演後の雰囲気を書いておこうと思う。ライブを終え御辞儀をする二人に、拍手はしばらく鳴り止まなかった。そしてそれは形式ばった拍手などではなく、二人への心からの賞賛の拍手だった。周りを見渡してみれば、目元にハンカチを当てる人や、目を赤く腫らす人、溢れる涙で頬を濡らす人が散見された。

正直に言って、異常な光景だと思う。1時間のライブを観てこれだけの人が心を打たれることがあるだろうか。その中には少なからずAnti-Trenchのファンでもなかった人がいただろうし、私もその内の一人だ。

あの光景はライブ終演後というよりも、そう、演劇を見た後の雰囲気に近かった。演劇は、そこで紡がれる物語への感情移入と、その場の空気や音や熱がもたらす共体験により感動を生む。

Anti-Trenchのライブは、それと同じ事を、観客の心に土足で踏み込むことでやってのけていた。詩で紡がれる物語はもちろんあったが、それ以上に、向坂さんが語りかけ、叫び、声を震わせて届けた一人一人への言葉が、観ている人の心を揺らしていた。夢を見させているかのような詩や、内面と深く向き合わさせる詩、そして見ず知らずの人間を、人生を肯定する詩。

参ったな、と思った。私が信じては諦め、を繰り返していた「言葉で人を救う」ということを、二人はあのステージで実現してしまったのだ。きっとそれはこれまでも、そしてこれからも実現し続けるのだと思う。

ライブにあてられた熱で書いていることは否定しないが、一度でいい。Anti-Trenchのライブを観に行ってみて欲しいのだ。

詩とギターは、異色だが、然るべきだった

そろそろ「ギターいる意味あるの?」と野暮なことを言われそうなので、熊谷のギターについて書く。

詩を伝える方法はいくつかあるだろう。すぐ思いつくものとしては

  • 一人による詩の朗読
  • 一人によるギター・ピアノ弾き語り
  • 二人による朗読とピアノ

あたりだろうか。

私の感想では、これらのいずれも、あのステージを成し得なかった。

一人による詩の朗読ではなくギターがいることによって、人はそこに景色を見ることができる。言葉だけでもそれは叶うが、音がそのイメージを膨らませていることは間違いない。輪郭を持った言葉に色付けを行っているのは熊谷のギターだった。

ならピアノでも良いか、と言うとそうとも限らない。それを見ていないから分からないところもあるが、ピアノではあまりに饒舌に歌い過ぎてしまっていたと思う。きっと、朗読に対して野暮なほどの色付けをしてしまう。それは言葉の輪郭をぼやかせる。観ている人が聴きたいと強く思っているのはやはり言葉の方で、伴奏がそれを越えては邪魔になってしまう。そういう意味で、必要最低限、そして十分な音をギターが奏でていた。

そして何より、本当に言いたいところはこちらにあるのだが、熊谷のギターがあることによって詩の読み手である向坂さんが生き生きする。ギターの音が、時に寄り添い、時に離れ、時に煽ることで向坂さん自身の心が揺れ、言葉に生々しさを増す。弾き語りとは違う、外部からの力によってしか起こりえないものだ。これができるのは二人の間にかなりの信頼関係がある証拠だろう。

だから、詩とギターという組み合わせは異色であるようで、もしかすると必然性があったのではないかと、そう思うのだ。

Anti-Trenchのこれから

他人がとやかくいう事ではないが、Anti-Trenchのこれからにはかなりの期待をしてしまう。二人のステージは多くの人が見るべきだ。とても見てほしいので見るべきだなどと強い言葉を使いたくなるほどだ。

Anti-Trenchがもっと大きくなるには難しい壁がいくつもあると思う。SNSなどが人に知られる大きなツールになっている中で、それを活用するのも難しいだろう。というのも、あのライブの熱量は、画面というフィルターを一つ通してしまっては半減してしまうからだ。加えて、あの熱量を音源に残すのもなかなか厳しいものがあると思う。

ともすれば、1ファンとなってしまった私ができることはAnti-Trenchのライブが素晴らしいのだということを口で広めるしかない。そういう思いの人が増えて行くうちに、Anti-Trenchはもっと上に行くんじゃないかと、今はそう期待している。