檻の中から

閉じ込められた動物は、次第に抵抗することをやめ、思考することをやめ、そう生きることが当たり前になってしまうという。

この世界は、どのくらい大きんだっけ。

朝の上り満員電車、肺まで潰れそうな圧迫感、梅雨の湿気、人間の体温。もう慣れたはずの悪辣な環境に、今日はやけに吐き気がする。隣り合う汗ばんだ男に眉をしかめる女、舌打ちをする高校生、耳障りな高音を漏らすイヤホン。この檻の中で、一人でも生きたいと思っている人間がいるのだろうか。

「すみません」

小さな声に顔を向けると、右隣にいる女学生が身体を縮めてつり革から手を離した。肘が当たってしまったのか、その前にいたスーツの男が悪態を吐く。

彼女はどうしてこんなところにいるんだろう。

華奢な身体、俯いて顔を隠す髪、暑さで紅潮した頬。頼りなく細い二の腕、その先の手はトートバッグを強く握り締めている。

豚小屋は速度を落とし、乗り降りの少ない駅に向かって行く。何かが限界だった。少なくとも僕は、ここから逃げ出したかった。

「降ります」

ホームに滑り込み扉を開けたその瞬間、頭が考えるより早く口を出た言葉、怪訝な顔で渋々場所を譲るサラリーマン、彼女の手を取って、

2番線、電車が発車します

驚いた顔の彼女から目を背けて、電車を見送る。手を離すと、涼しげな風が流れて、僕たちだけが取り残されたホームに無音が残る。

「降りちゃった」

そう言う僕はどんな顔をしていただろう。

「どうしようっか」

恐る恐る彼女に目をやれば、こちらを見つめる目はどこまでも透き通り、大切なものなんて、これまでひとつもなかったみたいに。檻の中から飛び出した僕たちの前には、途方にくれるような大きな空、穏やかな時間、知らない世界。

「どこに行きたい?」

問いかける僕に、小さく笑って彼女は言った。

「どこへでも」

もう一度手を取って歩き出したホームの上。どんなしがらみも捨ててしまおう。いらなくなったなら、僕のことも捨ててくれて構わない。

だから今は、どうか二人で、どこか知らない場所へ。



ああ僕は
この子と二人
満員電車
飛び出して
「降りちゃった」
電車見送り
「どうしようっか」
その手つないで
「どこに行きたい?」
少し笑って
「どこへでも」