普通の人間

久しぶりにブログを書いています。ここのところ、日々の明るさとは裏腹に心の内は陰るばかりで、生きることの虚しさばかりが返って際立っているような気がします。

僕はすこし目立ちたがり屋なところがあって、人と同じに思われたくないという願望がありました。人と同じ、平たく言えば普通の人間と思われたくなかったのです。そう思われることは、つまり自分が他人と代替可能で、自分が自分である必要が無いことと同義のように思えました。それはもう、生きる意味が無いのと同じでした。

むかし、尊敬していた友人の言葉が今でも呪いのように楔のように頭に刺さって離れません。

「お前は普通の人間だよ。普通の人生を送るよ」

とても悔しく、そうはなりたくない、特別な人間になってやると胸に刻みました。

ところがどうでしょう。あれから数年経って、抱いていた夢は何一つ叶わず、気づけば特筆すべきことも浮かばないような普通の人生を送っています。彼の予言は的中してしまったのでした。

僕のような、特別でありたいと願いながらもそうはなれなかった人間が、きっとこの世の中にはたくさんいて、腐るほどいて、本当に腐ってしまうことも珍しくないことで、それはとても恐ろしいことです。特別になれなかった普通の人間である自分が、明日も生きるための積極的な理由はもう見つかりません。斜面を転がり落ちる石粒のような、怠惰で冷めた日々を続けていくのかと思うと吐き気を催します。

こんな風に人生に白けていると、他人がどうして生きているのか気になり出します。あの人には何か生きる楽しみがあるのかな。それとも、生き死になんて気にしないで生きられるほど何かに熱中しているのかな、と。実際に聞いてみると、生きている理由なんて特にない、と答えられることが多くあります。そんな答えを聞くたびに、自分は子どもの頃から何も変わることができないまま、未だに生きる意味だとか、価値だとか、特別な人間への憧れを捨て切れていないのだということを思い知らされてぐったりします。

自分が叶えられなかった夢を叶えている友人がいて、彼の活躍がとても嬉しくて、誇らしく思っています。と同時に、自身の惨めさに心が黒く塗り潰されていきます。黒い汚れって落ちないんだよなあ、と笑えてくることもあります。

特にオチはありませんが、先日誕生日を迎えて6歳になりました。来年には小学校の入学式も控え、まだまだ長い人生を、なんとか明るく過ごせたら良いなと思っています。